ネギ嫌いの祖母、目玉焼きにはソース派の祖父について

その当時とても過酷で辛い思いをした祖父母は、当然、戦争の話をしたがらなかった。いつか聞こうと思っていたのに、二人とも亡くなってしまった。

祖母は実は歌が上手いとか、祖父は絵で賞を取ったとか、すげー理系で、なんなら特許も持ってたこともあるとか、色々、秘密にしていたわけではなかったと思うけど、私の知らない部分を持っていた。
そのことをふと思い出したので、書く。

祖母

祖母はその年代の女性にしてはスラッとした高身長で、美人で、がんのために片方の乳房を除去していた。その部分がぐるぐるになっていたのを、一度だけ見た。何の時だったかは忘れた。

私の食の好みや性格の一部には、彼女から遺伝したと思われるものが複数ある。ネギが嫌いなこと、鉛筆は全部ピンピンにしておくこと、手が濡れるのを嫌うことなどがそれにあたる。しょうもないところばかり似た、と母は言う。私もそう思う。地味な遺伝だ。

私たち孫がドタバタしていると「いちびってんと(=そんなにふざけていないで)」と声をかけて来た。
私と妹の間では一時期、祖父母宅にあるソファの背もたれを駆け上がって飛び降りるのが爆裂流行った。ソファ周辺をドタバタ走り回る孫たち。
当然、祖母には「いちびってんと!」と言われた。でも私たち姉妹は、いちびりまくった。クソガキだったからだ。

また、祖母はネイティブ「おおきに」ユーザーだった。お買い物の時は店員さんによく「おおきに」と言っていた。私は、服部平次と遠山和葉と祖母しか、日常で「おおきに」を使っている人を知らない。

祖母との古い記憶

妹が生まれた時、私は四歳だった。母は入院し、父は母のところにいて、ではそのとき誰が私のそばにいたのかと言うと、祖母だった。メロンパンを買ってきてくれたことを覚えている。

私がウロウロしながら、メロンパンのクッキー生地を落っことして家中を歩き回るので、浴びるように「いちびってんと」を聞いた思い出である。これが私の知る「一番古い祖母の記憶」だ。

ご飯をついだお茶碗にお箸を立ててはいけない、というのは彼女に教えてもらった。「ご飯にお箸を立てるのは、死んだ人にやるやつだからだめ」と言われた。
私はクソガキなので、実物を見るまで信じられないと言う旨の返事をした。すると「実物を見せてやる」と言う話になった。

祖父母家には仏壇があり、そこにある「死んだ人にやるやつ」を見せてもらった。ゆで卵を乗せるような小さな入れ物に、日本昔ばなしみたいな盛り方でご飯が盛られていた。箸は立ってなかった。
話が違うじゃねえかと思ったし、実際それを口に出して文句を言った。祖母と超ハイレベルな言い合いをした。しかし最後には「とにかくお茶碗に箸を立ててはいけない」と言うことになった。私は多分、レスバで負けたのだ。

祖母に関する記憶の中で、私は常にクソガキだった。最悪である。


祖父

祖父はかつて何かの特許を持っていたらしく、名前を検索するとその件でヒットする。笑う時とものを持った時に肩ないし手が痙攣したように震える人だった。手に関しては、そう言う病気だったと後から聞いた。

絵を描くのが好きな人だった。これは私の母と、私と、妹に遺伝している。あとお煎餅が好きなことも、私たちに遺伝している。筆や鉛筆を持つと手が震えるので、描画した線はいつも揺れていた。風景や建造物を描くことが多かったようで、彼の作品は大抵がビルとか、山とか、大仏とか、動かないものだった。
暇があると「暴れん坊将軍」を観ていた。逆に、暴れん坊将軍以外のテレビを観る祖父を、生まれてこの方見たことがなかった。

ミンティアみたいな白いタブレットを入れたケースがあり、常々それを持ち歩いていた。タブレットはラムネより少し薄くて、小さい。祖父はこれをコーヒーにアホほど投入していた。

私がそれをお菓子だと思って欲しがると、そばにいた母から「それは特別な砂糖で、おじいちゃんのものだからダメ」と言われた。人のものをとってはいけないので、そういうことならと引き下がった。
これも後から知ったことだが、このタブレットは糖尿病患者が砂糖の代わりに使う甘味料だったらしい。アホほど入れてたら意味ないんじゃね?

そんな祖父は何にでもソースをかける人で、肉まんにもかけていた。見たことがないからわからないが、目玉焼きにもソースをかけていたかもしれない。この件に関しては我々「目玉焼きには塩派」と相容れないので、深堀りはしない。

彼は大学生時代にスケートをやっていたことがあるらしい。詳しくは知らない。ハイカラだ。また、彼は新しい電化製品が出るとすぐに購入していたようで、とても古い、緑色の電子レンジを持っていた。
スケートと言い家電と言い、ちょっとミーハーだったのかもしれない。もしそうなら、それは私の妹とよく似ている。

祖母の葬式

祖母の葬式は、祖父が喪主をつとめた。彼はみたことがないくらい落ち込んだ顔をしていて、喪主の挨拶の時に「私たちは恋愛結婚で」と言っていた。

祖父母が檀家の住職が、お念仏を唱えているのを聞きながら、私たちは焼香をしたり、じっと座ったり、大変失礼ながら居眠りをしたりして、葬式は終わった。
葬式後の説法はボーボボと同じくらい意味不明だった。住職は話すのが壊滅的に下手だった。なんか、納豆の話をしていた。あとは忘れた。

式の後、みんなが待合室に戻っていくなか、私は祖母の顔を覗き込んだ。葬式場のプロによってお化粧をされていたので、綺麗な死に顔だった。眠っているのと区別がつかない。
でもよく見ると鼻と耳に綿が詰まっていた。「中身」が出ないための措置だという知識があったから、私は「ああこれは生きていないな」と言うのがわかってしまった。
とても悲しくて、ひっそり泣いた。

道中

そういえば、この葬式に向かう途中、私と母が乗っている車で、不思議なことが起きた。カーナビが勝手にぐわんぐわん動いて、和歌山の方へと画面が動いたのだ。

意味不明な誤作動だったが、母が「和歌山には祖母の友人が多く住んでいるって聞いたことある」と言う旨の発言をした瞬間に車内の空気は凍りついた。
祖母は生前に「もし死後に幽霊になることがあれば、電気をチカチカさせたり何なりしてみんなを驚かせる」と話していたそうで、それを実行したのだという話になった。母は「これは、あの女、やってんな」と言っていた。

カーナビが変な動きをしたのは、後にも先にもこの一回だけだった。やめろマジで、と思った。怖いのは苦手だ。

その後の祖父

祖母が亡くなって以降の数年、祖父は一人で暮らしていた。
その間、彼は米寿を迎えた。お祝いに私と、両親と、いとこ一家で色紙に寄せ書きをした。色紙には、私が大きく「上様」を描いた。祖父は喜んでくれた。笑う時はやっぱり痙攣していた。

祖父は、ある時体調を崩して入院した。それがちょうどコロナ禍だったので、面会はほとんどできなかった。たまに許可が降りたが、人数制限があり、大抵は母が一人で会いに行った。
あるとき、祖父の要望により、私は適当にキメ顔をして自撮りを送った。その時彼のそばにいた母曰く、写真を見た祖父からは「すりみちゃん、肥えたね」と言うコメントがあったらしい。ど失礼で草。

彼は一度呼吸が止まって、その時は親族が集まって交代で声掛けをした。それが功を奏したのか、彼は息を吹き返した。
峠を越えた後、祖父はずっと呼吸器をつけることになった。喉の奥に管があるから、彼は喋られなくなった。意識があったかどうかすら、私にはわからない。目は閉じていた。

親族のうち、百六歳まで生きた人がいて、その人は三回死亡宣告をされたがその都度不死鳥のように蘇ったと聞いていた。
だから、祖父にも三回、あるのだと思っていた。でも、二度目はなかった。次に我々が駆けつけた時に、祖父は亡くなってしまった。


祖父の葬式

祖父の葬式は伯父がつとめた。伯父は顔が四角くて、眼鏡も四角い。若い時の祖父の証明写真を一度だけ見たことがあるが、それとよく似ている。眼鏡まで似ている(後者に関しては、寄せている疑惑が浮上している)。

小さな式だった。本人の意向かどうかは知らないが、祖父が派手な葬式を好むとは思えなかったし、祖父によく似ているらしい伯父がそうしたのなら、それで正解だったのだと思う。

喪主の挨拶のとき、伯父は「父は百六歳を越えて生きることをめざしていたようで」と言う話をしていた。やっぱりそこは狙っていたらしい。

式はつつがなく終わった。
式の間に飾っていた花や、他にもたくさんの花を、みんなで棺に入れた。生花まみれの祖父は映えスポットみたいになっていた。母が写真を撮っていた。どういうメンタルしてんだと思ったが、こちらから言うことは何もない。母は平然としていたが、それがかえって心配だった。彼女は子供に弱みを見せるタイプではない。

ありがたいお説法 ボーボボトーク

前と同じ住職が来て、お念仏を唱え、式の後は例によって説法をした。
故人とのエピソードトークをしたまでは良かったのだが、プロレスの話を経由してからは意味不明になった。住職の説法は明後日の方へ飛び、ウルトラCを決めて、最終的には忍者の話で落ち着いた。そこに至るまでの内容は忘れた。
昔、テレビで俳優さんが「支離滅裂な台本は覚えにくい」と話していたのと似ている。脈絡のないセリフは覚えるのが難しい。

そんな説法を聞きながら、私たち姉妹は「これだよこれこれ」と歓喜した。もうそういうアトラクションみたいになっていた。
現代アートみたいな説法は、我々Z世代にとってはそういうエンターテインメントである。

住職は話がド下手なので、葬式然り法事然り、親族からは「声がいいのにもったいないね」というご意見が出る。その度に、ほっといてやれよと思う。
あれは意味不明だから良いのだ。あの、ボーボボのあらすじみたいな説法からしか得られない栄養素がある。知らんけど。

焼き場

その後、遠足みたいなバスに乗った。向かったのは骨を焼くところで、そこでは当然、骨を焼いた。そのためだけに存在する施設だ。
焼いている間は暇なので、私はぐるぐるのパンを食べたり、持参したパソコンで絵を描いたりした。

しばらくしてから、「焼けました」と声がかかった。バタコさんかよと思った。

熱い部屋に案内された。トランスフォーマーみたいな動きの機械が、棺の乗っていた鉄板を運んできてくれた。

棺も花も祖父の身体も、跡形もなくなっていた。白い塊だけがポツポツと乗っていて、それが祖父の骨だと気付くのに数秒かかった。

親族は「骨が太くて健康」と言う話をしていた。健康診断みたいだ。なお、診断されている方はすでに死んでいる。
私は話には混ざらなかった。それどころではなかったからだ。骨を見ると、喉が引き攣ったような声しか出なくなって、胸が苦しくて、でも人前では絶対に泣きたくなかったので堪えた。

みんなで代わりばんこにクソデカ割り箸を持ち、ここは足の骨だの喉仏だの聴きながら、骨を収納していった。喉仏はガチで仏の形をしていて、ヤバかった。
焼いた骨の大半は、骨壷に入りきらなかったので、「余った遺骨」として行政に処分されることになった。海や山に蒔くから余りも全部くれ、と言おうとして、やめた。本人からそう言う話をされたわけでもないのに、ここで私が出しゃばるのは違うと思った。なにせ混乱していた。

骨壷は小さかった。入棺したときは「ひと」の形だったのに、焼いたらカルシウムの塊になってしまった。人は、あんなに小さくなってしまうのかとショックだった。その晩は酷くうなされた。酷い夢を見た。内容は忘れた。


最後に

聞きたいことがたくさんあったのに、それを聞くより前に、祖父母は亡くなってしまった。祖父母には年に数回しか会わなかったので、プライベートなことや、昔のことを聞くのは憚られたからだった。人様の人生に踏み込むみたいで、できなかった。でもそうしているうちに本人はいなくなったので、母から又聞きするほかなくなってしまった。
母は、色々な話をしてくれた。

祖母は疎開先で腐った野菜を食べて、その時のトラウマで玉ねぎやネギが嫌いになったらしい。
晩ごはんの時間になっても部屋から出てこない母を居間から呼ぶのだけれど、一度目は普通に名前を呼び、二回目になるとキレているらしい。
玄関にネギを置いたら、居間からでもそれがわかったらしい。
地元の大阪は空襲で焼けたのに、京都は文化がどうこうと言う理由で焼かれなかったから、複雑な気持ちを抱いていたらしい。
彼女の母、つまり私の曽祖母にあたる女性はお金持ちのお嬢様だったので、感覚が気高く、闇市では絶対に買い物をせず、昔生家で雇っていた農家のお手伝いさんのお家へ行って、わずかな食料と高価な着物を交換していて、祖母はそのことに不満があったらしい。

祖父は昔、色々と砕いたり割ったりする機械に携わっていたので、何が入っているかわからないとミンチ肉を警戒して、ハンバーグを食べなかったらしい。
やっぱり、目玉焼きにはソースをかけていたらしい(到底信じがたい)。
かつてはとんでもないベビースモーカーで、一日に数箱空けるくらいタバコを吸いまくっていて、居間にあったクソデカい缶の円柱は、珍しいデザインのゴミ箱ではなくタバコをたくさん買ったらもらえた何かだったらしい。
走るのが早かったらしいが、誰も彼が走っているのを見たことがない。
暴れん坊将軍以外に、実は、水戸黄門も観たらしい。
戦争に兵士として動員される少し前に終戦したので、タイミング的にギリギリだったらしい。

聞けば聞くほど、面白い話が出てくる。

沢山、聞きたいことも、話したいこともあった。でも、彼らに関するすべての話は、もう又聞きでしか知り得なくなってしまった。
又聞きでこんなに面白いんだから、直接聞けていたら、どれだけ面白かったんだろう。

もっと話しておけばよかった。おじいちゃんおばあちゃんが大好きです。

ふと、そう思ったので、書きました。おしまい。

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