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杜野凛世よ、その想い、どうか叶わないでくれ


※一部、杜野凛世のWINGコミュのネタバレを含みます。


元々アイドルマスターシンデレラガールズ(以降デレと記する)にしか触れていなかった私が、先日ひょんな事からアイドルマスターシャイニーカラーズ(以降シャニと記する)をしっかりと触り始めた。

シャニ自体は、サービス開始当時からアカウントのみは作成していたものの、「これは確実に沼るな」という直感の元で中々手を出していなかったのだ。

5年前に抱いていたこの直感はやはり正解であり、今、私は杜野凛世というアイドルに両手両足とgoogleplayカードを全力で突っ込んでいる状況だ。



浅学ながら、このコンテンツを楽しんでいる最中で、自身の感じていることを言語化していきたいと思う。

当然だが、各個人の最適解(つまり解釈)を握りしめる本コンテンツのあり方と同じく、これに正解はないという前置きを残しておくし、暫くこのコンテンツに浸る中で、以下に記載する内容が未来の私自身にとって解釈違いになる可能性は大いに有している。

でも、こういうのってとりあえず思いついたら書き残しておくのがいいって聞いたことがあるので……許して……



デレと比較した際のシャニとの違い

最大の違いは、プロデュース行為そのものと、その行為のために与えられたプロデューサー像の顕在化だろう。

一応の説明だが、アイドルマスターというゲームタイトルにおいて、プレイヤーはプロデューサーという肩書を持ち、アイドルと接する。
プロデューサーとは、このコンテンツにおけるアイドルとの橋渡し役として用意された媒体である。

以下の文章は、プロデューサー(上記の意)とプレイヤー(本コンテンツを享受する私たち)という言葉は意図的に書き分けており、各々異なるものとして読み進めて頂きたい。

・シンデレラガールズにおけるプロデューサーとプレイヤーの関係

デレにおけるプロデューサー像というのは、アイドルに対する最適解を表象していることが殆どだ。

コンテンツの中でフォーカスされているのは、(それが自身として意図されていないものであったとしても)アイドルの成長であり、アイドルは悩みながら、前に進んでいくよう物語は形成されている。

それに対し「完璧であるプロデューサー」はその成長のための最適解を持ちながらアイドルを導いていく。


物語におけるプレイヤー側の選択肢は、プロデューサー像が完璧であることから限りなく排除され、結果が定められたコミュを読み解いていきながらアイドルの姿を追いかけることとなる。

「公式との解釈が異なる」という一部の例を除き、プレイヤー側の都合を挟む余地を有していない一方で、完璧な作り手の意図を読み解きながらコンテンツを楽しめることは大きなメリットでもある。


加えて、「ごっこ遊び」においてプレイヤー側の余地を残さないことに対する配慮として、「プロデューサーの姿を最大限排除している」ということも大きな要素である。

多くの場合、アイドルからかけられる言葉はプロデューサーに対する「呼びかけ」に留められており、製作側の用意しているプロデューサーの回答は、(後述するシャニと比較すると)かなり抑えられている。

対話になく呼びかけにあるメリットは、1対1の擬似的な会話体験※1だ。これによりプレイヤーは、ゲーム内のプロデューサーという媒介を通して、選択肢の余地を敢えて廃棄させられることで、純度の高いごっこ遊びに興じることが可能となる。

※1 ストリーマーが視聴者に対していつだって呼びかける「みんな」は、外から見た際には1対Nの会話のようだが、没入してみるとチャットというコミュニケーションツールも相まって、1対1の会話体験のように感じることもあるだろう。この「みんな」を「プロデューサー」に置き換えてみると比較的想像に易い…のかもしれない。


・シャイニーカラーズにおけるプロデューサーとプレイヤーの関係

一方シャニにおけるプロデューサー像は、「アイドル育成」という言葉が極めて相応しいこのゲームの性質上、プロデューサーの姿が大きく描かれることとなる。

デレと同じく、コンテンツ内でフォーカスされているものはアイドルの成長であるが、プレイヤー側の橋渡し役として用意されている「不完全なプロデューサー」は、いつだって最適解を叩き出せる訳では無い。

凡そ私たちプレイヤーの想定している最適解よりも多かれ少なかれ誤ったコミュニケーションを取り、アイドルとぶつかりながら、アイドルと共に大きく成長していく物語構成が多いように感じた。

そしてその誤りはプレイヤー側の取る選択肢にも有している。
ゲームの選択肢において"バッドコミュニケーション"が用意されており、プレイヤー側が正と思った選択が、正しいものでは無いと返される事もあるだろう。
プレイヤー目線としては、一部コミュニケーションにおいて、「これでパーフェクトコミュニケーションってマジかよ!?」という驚きを持つこともあった。


上記2点(プロデューサーとプレイヤーのコミュニケーション)において、プレイヤー側が圧倒的に分が悪いのは、そこで展開されているのは、プレイヤーの会話体験ではなく、「アイドルとプロデューサーの対話」であることだろう。


ここでひとつの疑問が浮かぶ。

「ごっこ遊びに興じるという目的において、シャニのゲーム内におけるプレイヤー側の選択は、どの程度寄与しているのか?」

私の持っている結論から言うと、「ゲームプレイという観点では多分に寄与しているが、ごっこ遊びとしては殆ど寄与していない」である。

ゲームをプレイするという観点では、プレイヤーの取る選択や行為に対し、明確なパラメータ(テンション等)としてアウトプットを受けることとなる。

一方、ごっこ遊びという観点において、物語的に得られるのは「アイドルとプロデューサーの対話」であり、それは物語の読み進めの域を出ず、ごっこ遊びとしての材料(=成り代わりのための没入感)が得られるとは言い難い。※2

※2 奇跡的にプロデューサー像とプレイヤー側の認識に相違がない場合においては、その限りでは無い。


タチが悪い(敢えてこの表現を使う)のが、ゲームにおけるアウトプットのみを追い求める目的以外で選択を行う際には、ある程度プレイヤー側の想定が必要であり、それと異なる選択群や物語のアウトプットが返されることを覚悟しなければならない。

こうして多かれ少なかれ生まれる軋轢はフラストレーションとなり、プレイヤーの「解釈」の原料として昇華される。


結論、シャニにおけるプロデューサーとは、プレイヤーとは完全に異なる個を有し、私たちプレイヤーはそのアイデンティティを認めざるを得ない状況におかれている。

ただし、認めることと受容する事はイコールではなく、その乖離によってプレイヤー個人の解釈を得ることで、解像度を上げていくことが、このゲームの楽しみ方である。と私は考えた。


ダ・ヴィンチ・恐山がアイマスに対する「顕(在化)」を説いた動画があった※3が、シャニは他タイトルと比較してみると、顕在化のための発火剤はプレイヤーにとって多様なのかもしれない。

現に今私は、軒先に咲く柔らかな色の花を見ると、凛世のことを思う人間になってしまった。

※3 https://youtu.be/TMoRQWKxfJQ



なお、はじめに断っておくべきであったが、この両コンテンツのあり方それぞれについて、優劣は存在しない(と少なくとも私は感じている)。

普遍的な言葉を使うなら、「好みの問題である」し、別にこれらを推しはかる必要も無いだろう。

私はどちらも好きだ。ただしシャニの方が摂取に多量のカロリーを使用するので、めっちゃしんどい。



杜野凛世の"世界"

ものすごく前置きが長くなってしまったが、ここからが本題だ。

杜野凛世のキャラクター性や尊さをここで紹介するつもりはない。

この駄文をここまで見ている各位に対し、私は「杜野凛世が素晴らしい」ことを説明するに足る人間ではなく、その素晴らしさを明瞭に表現されている他の発信元は沢山存在しているためである。※4

※4 個人的には、月ノ美兎の各アイドルの育成配信がオススメだったりする。


凛世のコミュに登場するプロデューサーは、凛世の想いに対して、とにかく鈍感というか、ズレたコミュニケーションをとるように見える。

それはアイドルになる(させる)という最初の目標を突破した2人の目的が異なるからだろう。

プロデューサーは凛世に対して「凛世のなりたいアイドル像の形成とその実現」を願っているのに対し、凛世は「プロデューサー様の期待にお答えすること=アイドル活動を続けること+自分を応援してくれるファンの皆様の期待にも答えること」を目標としつつ、「プロデューサー様のお傍において頂くこと」の最終目的は(今のところ)変わることは無い。

そのため、≒自分を応援してくれる〜という目標が追加された際、凛世はプロデューサーに対して謝罪をしたのだろう。
なぜならその目標は最終目的とは離れていると思っているからだ。

これに対し、プロデューサーは「世界」と返す。
それぞれの見ている世界は確かに異なる。が、それを共に有する事は出来る。

なんとも美しい在り方だろうか。……ただ、私たちプレイヤーはどうすれば良いのだろうか。


コミュに沿って凛世と向き合う際には、プロデューサーに対する想いとも向き合う必要がある。

これを物語的に追いかける際、一般的には両者に対する理解度を深めることによって、心から楽しむことが出来るのだろう。※5

※5 例えば「僕の心のヤバいやつ」という作品においては、物語が進むにつれて主人公とヒロインの両方の理解度が深めていけるような構成であることから、ある意味違和感なく2人の恋路を見つめることができるのであろう。


ただ、少なくとも1ヶ月ほどこのコンテンツと向き合った中において、プロデューサーに対する理解度を本質的にあげることには成功していない。

上記にて私が結論づけた、プレイヤー自身の解釈を得るための媒体である存在という性質上、恐らくは製作側が意図して「凛世に対するプロデューサーの想い」を排除しているため、凛世に対して紡がれた言葉を贈り、プレイヤー側はそれを見る他ない。

というか、それを描いてしまったら元も子もないため、描けない、描くことが適切では無い、という方が正解か。


私たちは、この世界の壁(第四の壁、とよく言うが)を超えることはなく、凛世の世界に入り込む必要がある。

となるとなんだ?凛世のことを応援してる"皆様"となることが最良の選択になり得るのだろうか。


私が凛世に対して憐憫の情を抱くのは、きっと傍観者だからだろう。

凛世はWINGを通じて世界を拡げ、プロデューサーと一緒の景色を見ることが出来た。
いつか、凛世の世界の中心がプロデューサーであることに気付いてもらい、それにプロデューサーが答えてくれることを信じる他はない。


だが、その世界の中に、どうか私のことも入れてはくれないだろうか。


それまではどうか、その想い、叶わないでくれ。



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