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生成AI時代にプロとしての仕事を教えることの難しさ。

プロとしての仕事をしている。

これを教える仕事もしているが、

プロとしての仕事を見せることでしか教えようがないところがある。

しかし誰にでも見せられるわけではない、仕事における信頼は仕事を通してしか構築できないところもある。

つまり「プロとしての仕事をしたくないひと」は信頼を築くのが難しい。

経験のない人は仕事場に入り込むことも許されない、信頼がないから。
「じゃあ永遠に無理なんじゃないですか?」と訊かれれば、
『そうだね、だからチャンスは無駄にしたらあかんよ』と言って笑う。

チャンスを与えても、
情熱や責任感が欠けている人は、結果として仕事の質も信頼も欠けてしまうし、これは一時期の姿勢の問題ではなく「性根」、つまり本人の素養の問題なんだろうなと思う。
「思う」と書いたが正確には「感じる」ぐらいの話だ、プロの文章書きとしては「思う事にしている」ぐらいで校正しておく。

こんなことを書くと、
「シライサン、そんなことをネットに書くと、若い人に嫌われますよ」
なんてDMがFacebookで飛んでくる。
そういうとこだぞ、オジサンのよくないところは。お節介がすぎる。
…と、平成生まれのアナタは、かつて自分が「ウザいな」と感じてきた「お節介おじさん」をやらずに生きていける自身があるだろうか。そのままやってしまうおじさんになってる事に気づいているだろうか。そんな配慮を感じるようになったらもうオジサンだよ。

生成AI時代における「人を育てる」難しさ

現在流行りの生成AIの多くは、クリエイティブ分野の推論が可能になってきている。

ハイプサイクルの前半においては、驚きを持って紹介するだけでいい。でも失望の谷の先は実際にプロフェッショナルレベルで使えるかどうか?価値があるのかどうか?具体的には品質や評価、そしてそのコストや長期的な価値について積み上げていく必要がある。

研究に例えれば、修士・博士レベル専門家を育成したり、その教育のベースとなる知識や用語の定義、方法論の体系化、体系的な学問としての整理や育成のための演習が必要になる。

世の中が便利になると子供を育てるのに時間かかる

この話をするとき、世の中が便利になると子供を育てるのに時間かかる、という話をよくする。
例えば「電子レンジ」という道具は便利だが、電子レンジで食品を加熱するのが当たり前の世代にとって、ガスコンロや薪で加熱する事は「面倒で危険」でしかない。火おこしまですれば「コストに見あっていない」「手のひらが痛いじゃないか」といったクレームも来るだろう。

一方で電子レンジの構造も、安全性も、危険性も知らないまま子供は大人になっていく。

不便がいいという懐古主義の話をしているのではなく、その良し悪しでもなく、技術論として「便利な道具が出れば出るほど、教えて育てる行為は複雑になる」というシンプルな関係性だ。

このジレンマを解決するには別次元の努力が必要で、例えばUnityやUnrealEngineのようなゲームエンジンが出てきたとき、多くのゲームエンジニアは飛びつかなかった。若い世代での取り組みや、多くのプロフェッショナルたちの努力、大プロジェクトでの採用など、複合的な積み重ねでゲームエンジンは現在のように普及した。ゲームは多様に進化し、いまはプログラミングからゲームを学ぶケースは一手段でしかない。ゲームグラフィックスをプログラミングから学ぶ学生は減った。ホビーとして「ゲームを作ったことがある人」の人口は増えたが、プロとしてゲーム開発を生業としている人は増えただろうか。むしろ学ぶことも多く複雑になり、プロとして生業とするための収入を成立させるハードルは(同人やインディーズなど段階や多様性こそ生まれているが)、一本槍の才能では難しい。

さらに誰でも使えるツールや教育環境があるという事は、来年の今頃にはもっと才能ある若手が生まれるということ。ゲーム開発の世界では専門学校ができてから30年、ずっとその問題が続いてる。

そのぶん同人などのホビーも日曜作家も糧を得られる方法が存在している。
だからプロになれるかどうかと、作り続けるかどうかは全く同じ話ではないし、むしろ日当たりとか風当たりとかいった、環境ストレスの違いしかないのかもしれない。

植物と「AIという温室」に例えてみる

ところで植物を見ていると、変なところから育ってしまう株もあるし、陽のあたり方や風向きなどで、ストレス少なく伸び伸び育つ環境や、品種もある。


そういう環境選択性も含めて、植物ではない人間としては「自分で環境を選んで生きていく」ということはできるんだけど、AIという温室によって、人類は環境選択性や自然選択性に強いバイアスをかけてしまったことに最近気がついた。

ぼくらは裸で外を歩けるんだろうか。
裸で外を歩く現代人は、仲間を見つけられるだろうか。

野生種で環境選択性が高い個体はオーガニックに生きることを選択するだろうけれど、

その生存競争は、汎化性能を高めたプロプライエタリなモデルと、コミュニティのメンテナンスによるオープンなモデル、そして、完全に日陰でも生きられるダーティなモデルといった種に囲まれている。

未来の自分に向けたメッセージが書けるか

何がいいたいのか、わかる人にはわかるかもしれないが、それでもいま述べておきたいのは、人は環境とその選択によって育まれるということ。そしてその環境が、その個体の成長や信頼構築に大きな影響を与えるという真理は変わらないということだ。AIを使う者のプロとしての姿勢や責任感も、また同じく、育まれるものであり、その素養と選択が環境により大きく左右される。使われるAI、お金が払われるサービスなど、この数年間の人々の一つ一つの選択が、我々人類自身の向かうべき方向、人類としての在り方に強いバイアスをかけている、そんな局面を垣間見てしまった。


そしてそれは、一つ一つの選択肢の先にあるのではなく、もしかすると、その人間としての一つ一つの選択肢が誤りであることの証明にもなりえる。

何か、大きな判断をするときには、
ぜひとも未来の自分に向けたメールなり、ブログなりを書いてみるといい。
自分の人生だからな、責任は自分で取ればいい。
そこまでの記憶力や決意があるなら、自分の人生を生きるプロ、として生きていけるんじゃないかな。絶対に他人のせいにするなよ。

君たちが大嫌いな、
・長文お節介オジサン
・昔はよかったオジサン
・最近の若いもんはオジサン
このオジサン要素に加えて
・俺の人生はこんなはずじゃなかった
という数え役満オジサンが完成するからな。

世界は待ってくれない

ちなみに生成AI時代のプロフェッショナルは楽しい。楽な要素はあんまりない。しかし国も違えば陽の当たり方も、収穫の仕方も、市場も、プロの在り方も全然違うから面白い。

日本のやり方は必ずしも間違っている訳ではないが、いまは昭和でも平成でもなく令和であり、生成AI史観においては幕末期から明治時代ぐらいの変化の中にいる。

昭和や平成のダメなところも世界のAIは学習済み。中国、韓国、米国のプレイヤーは平成日本の弱いところをよく知っている。

・まず伺う、調整しようとする
・組織としての判断が重い
・失敗が怖くてリスクを取れない
・論理や合理性よりも情をとる
・自由と責任のバランスが甘い
・兵としての教育を知らない

韓国のプレイヤーがチームで戦ったら敵わない。
e-Sportaのような体験が、リアルビジネスでも起きる。

そんなところで砂鉄氏のツイートが視界に入った。

AICUは私のような昭和生まれのフリーレンがCEOでもあるので、オーガニックな野生環境で育った(砂鉄さんの言うところの)「金稼げて組織が作れる100万人の昭和の日本人」が経営をしています。もしかしたらいろんな才能もあるんですが、この野生もけっこう大事な要素があって。

それが、生成AI時代にプロとしての仕事を教えることの大変さ。
アタリマエのプロがやるべきことをきちんとやって、かつ蟹工船にならないようにしながら令和AI時代の世界を舞台にしたものづくりを進めています。

これはめちゃくちゃ楽しいし、まだまだ伸びる。
柔軟に、学びながら、成長をし続けていく。
日陰でも、日向でも、アポトーシスすら、成長のチャンス。

そんな伸び盛りの僕らに興味があったら、ぜひDMください。

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