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イカが好物になった日のこと~能登の思い出①

人生のほとんどを関東で暮らしている。
子どもの頃は今ほど流通が整備されていなくて、太刀魚や生牡蠣なんてものは、産地に行かなければ食べられないものだった。

イカといえば、干物か冷凍されたものだった。
冷凍イカの見た目は消しゴムだった。
あの「MONO」のやつだ。
魚屋では生のイカも売られていたけれど、当のイカが「食べんの? いいよ無理しなくても」といじけて、目を背け、デロンとだらしなく寝そべるばかり、だらしないなぁ、しっかりしたらどうなのよ、と悪態のひとつも吐きたくなるザマで、輪郭もおぼつかないものしかなかった。

それなのに、食卓にはよく、大根とイカの煮つけが出た。
これがまぁおいしくなかった。
母の名誉のために言っておくが、料理は上手な人だった。
けれども、イカはいけない。
グニャグニャとゴムを噛んでいるようだった。
当時、寿司といえば急なお客さんがあった日の出前しか知らなかったけれども、寿司ネタのイカも白く濁った覇気がないものだった。


ケイちゃんの実家は、輪島の街中にある。
ある日、遊びにこないかと誘われて、確か大学3年の秋にゆうこちゃんと一緒に初めて輪島に行った。

ケイちゃん家ではおばあちゃんが潮汁をつくってくれた。
飛び切り新鮮な魚のアラで取った出汁と、生姜の香りがふわんと鼻に抜ける、シンプルなすまし汁だった。
こんなに美味しいものがあるのかと、私とゆうこちゃんは興奮した。

「おばあちゃんの潮汁は私も大好きでぇ、輪島に帰ったらぁ、絶対飲みたくなるんよ」とケイちゃんは声を弾ませながら潮汁を啜った。
ふだん標準語のケイちゃんのイントネーションが、能登の音になっていた。
こんなにおいしいものを食べて育ったケイちゃんが心底うらやましかった。

「おばあちゃん、またこれ絶対飲みに来るから、ずっと元気でいてください!」と興奮しながら言う私とゆうこちゃんを見て、おばあちゃんが面白そうに笑った。


ケイちゃんのお父さんは、元、高校の校長先生で、郷土史家でもあった。
可愛い娘ケイちゃんが東京から久しぶりに帰省して、しかも友達を連れて来た、ということで輪島を隅々、車で案内してくれた。
それはそれは愉快で興味津々なドライブだった。

白米千枚田、揚げ浜塩田。
曽々木の千体地蔵には駐車場からかなり歩いて登った。
上時国家の豪壮さに驚いた。
樽前船で栄えたこの名家の史跡が去年の8月に公開を終えたことを、今年になってから知った。


御陣乗太鼓を見たいなぁ、と思っていたら、キリコ会館で見られるという。
鬼や幽霊の面が思ったよりも大きく恐ろしくて、髪を振り乱しながら鳴らし続ける太鼓の音も激しくおどろおどろしかった。

御陣乗太鼓とは、輪島の名舟地区に伝わる郷土芸能だ。
上杉謙信の軍勢が奥能登に攻め入ってきたとき、名舟の古老が策を講じて、樹皮で面を作り、海藻を髪に見立てて、太鼓を打ち鳴らして上杉勢を追い返したのが由来だといわれている。
いまでも、太鼓は名舟の男が叩くもの、と決まっているらしい。
夏の大祭では浜辺で御陣乗太鼓を打ち鳴らすそうで、いつか見てみたい、と思いながらもう何十年も過ぎてしまった。


さて、その御陣乗太鼓の面を打っている人がいる、と、ケイちゃんのお父さんが海岸の縁に建つ家に連れていってくれた。

海岸の縁も縁、波打ち際のちょっとした高台に建つ、二階建ての家の上の階まで上がると、清潔な部屋は明るく、窓が開け放たれていた。
窓の脇には座卓があって、途中まで粗く彫られた面と、カンナや彫刻刀が置かれていた。

その人は海に面した出窓から外に腕を伸ばしていた。
その日、海はキラキラとまぶしくて、逆光になったその人はシルエットだった。
ケイちゃんのお父さんが声をかけると振り返り、ちょっと待っとって、と言うと、窓の外に出していた腕をひょいっと振り上げた。

すると、なんということだろう、イカが部屋の中に飛んできたではないか!
細い竿の先から、いとも簡単に、迷いなく。
水晶のような透明感があり、隅から隅まで鋭角で、きゅっと締まった、見たこともないほど美しいイカだった。
イカは、何が起きたのか受け止められない、と部屋の角でわなわなと跳ねていた。
嘘みたいだが、確かに見たのだ。
魔法を見ているようだった。
その後まもなく、さらに3杯ほどのイカが部屋の中に飛び込んできた。

呆気に取られて挨拶もできないでいると、階下から奥さんがお茶を持って上がってきて、にこにこしながら「どうぞ」と座布団を勧め、イカを持って下がっていった。

あんまりにもびっくりしたものだから、その後のことはほとんど記憶がない。
御陣乗太鼓の面の説明と、作業風景を見せていただいたんだと思う。

しばらくして、奥さんが再び上がってくると、皿の上に宝石のようなイカ刺しが載せられていた。
面打ち師のおじさんとケイちゃんのお父さんと、ケイちゃんは、それを当たり前のように箸で摘まんでポイと口にした。

私とゆうこちゃんも勧められるままに箸をつけた。
エッジの立った切り口、冷たい輝きを放っているのを、ちょっと醤油に付けて口に運ぶ。
張りのある感触が歯先から伝わってきて、こんなイカは初めてで目を剥いた。
甘い。
サクッとしているのに、ねっとりとした滑らかさもあって、なにしろすぐに嚙み切れてしまうから、口の中の滞在時間が短い。
油断していると、あぁぁぁと思う間もなく腹の中に落ちていってしまうのがもったいなくて、じんわりじんわり慎重に味わった。

面打ち師のおじさんとケイちゃんのお父さんとケイちゃんは、そんな私たちを愉快そうに見ていた。

あれは夢だったんだろうか?
初めての能登での衝撃のイカ体験のおかげで、すっかりイカが大好きになったことを、ふと思い出したのだ。

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