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【最新作云々㊱】スペイン巨匠監督が紡ぐ"現実から目を背ける女"と"現実に向き合う女たち"が死者と対話する映画『ヒューマン・ボイス』/『パラレル・マザーズ』

 結論から言おう・・・・・・こんにちは。(・∀・`●)
 先週末、とある地方の民宿施設で外飼い状態の犬を数年ぶりに見掛けて"これも今や失われつつある光景なのか…"と何でもないようなことが幸せだったと思う、O次郎です。

※とどのつまりもうこのコントなんかもシチュエーションからして不自然、ということですな・・・。
みなさん流石にお若い…ていうかこの犬の着ぐるみ着てみたい。(=^・・^=)

 今回は洋画の最新映画『ヒューマン・ボイス』『パラレル・マザーズです。 
 それぞれジャン・コクトーの戯曲を現代風にアレンジした短編と、同時期に同じ産院で出産したシングルマザーの二人が見舞われた赤子取り違えによる罪業と懺悔の物語。
 スペインの名匠ペドロ=アルモドバルによる監督作品2本が同時公開、ということで先日劇場で観てきた次第です。ちなみに『パラレル・マザーズ』については以前TBSラジオたまむすび』にて紹介されていました。
 かたや恋人との別離後の僅か四日間でそれまでの四年間の甘い日々と比べ物にならないほどの怨嗟を溜め込んだ女性の魂の恨み節、もう一本は我が子と親友の子との産院での取り違えを悟った女性が真実を打ち明けるか悩み苦しむ姿に"過去の独裁政権の積弊を忘れるべからず"という政治批判の意思を託した社会派作品。同じ監督の手による作品ながら全く情緒の違う作品に仕上がっています。
 奇しくも、現実を受け入れることを全力で拒絶する女性の、そして現実に苦悩しながらもそれを受け止める覚悟を示す女性の、それぞれコントラストの利いた2本になっているところが面白いところです。
 ミニシアター系作品がお好きな方々、どうぞ読んでいっていただければ之幸いでございます。なお、ネタバレ含みますのでご注意くださいませ。
 それでは・・・・・・・・・・・・"平成犬物語バウ"!!

※コレ、本放送の時から結構好きだったうえに毎年の夏休みの午前中のアニメ再放送枠のかなりの常連だったのでよく覚えてたんですが…実際の放映期間は一年足らずだったとはちょっと驚き。
ひょんなことからバウとさやかが知らずに別離してしまう幕引きもなんかそのあっさりさが良かった。



Ⅰ. 『ヒューマン・ボイス』

※日本語版ページが存在しないため、翻訳等でご覧ください。

 "芸術のデパート"ことジャン=コクトーが1930年に発表した戯曲『 La Voix humaine(人間の声)』をアルモドバル監督が現代風にアレンジした30分の短編映画
 主演のティルダ=スウィントンのほぼ一人芝居で、監督初の英語作品とのことでございます。
 原作は、5年間付き合っていた恋人から他の女性と結婚するために別れを告げられた女が彼からの電話を受けて疑い・絶望・愛の告白・非難を浴びせたうえ、電話のコードを首に巻き付けて自ら命を絶つ…というもの。
 その原作の余情に囚われた展開に比べ、本作では未練のみならずその裏返しの憎悪すらも吐き出し切って一切の余韻を残さずに別の人間に人為的に転生しようかというぐらいの狂気的な意気込みを感じます。

主役の女性(名は無し)は演じるティルダが還暦を過ぎていることもあるので、
設定としても中年には差し掛かっている女性でしょう。
言ってみれば酸いも甘いも噛み分けた年齢であり、なればこそ
"恋人を失ったぐらいで狼狽する自分もそれだけ自分にとり大きい部分を占めた元恋人も許すまじ"
という年嵩ゆえの愛への蟠りが観ていて醜くも悲しいところです。
そして本作が舞台劇ではなく映画であることの特徴兼アドバンテージとして
女の住む家の調度品とその造形があります。
己の服飾や置物の原色傾向は自身のハイセンスへのプライドと強い拘りを想起させます。
まるでモデルルームそのままのような、生活臭を排除した空間は
彼女の潔癖さも表象しているのかもしれません。
彼女が強がり、相手を非難し、過去を想い…と心の機微の移り変わりの度に
衣装とイメージカラーが変わっていくのもビジュアル的な見どころでしょう。
気付けば冒頭の真っ赤なドレスのフェミニンなイメージから数十分で別の地平へ。
まるで電話口で好悪の感情を吐き出しつつ、女としての情念の一つ一つを供養しているかのよう。
そして遂には恋人との思い出の品々というか恋人そのものなアトリエ(?)と決別すべく火を放つ。
恋人の表象の中で死んでいくのではなく、己の中の恋人の表象を殺すのです。
辺りに火が燃え広がったところで唐突に外から消防車と消防隊員が到着し、消火に当たります。
彼との愛の四年間と、お別れとなって以降の三日間の怨嗟が全てを占めていた彼女に、
ようやく外の世界との隔絶が解消されたのでしょうか。

 別れた恋人の表象としてはただ電話口だけですが、それに対して彼女は言葉を尽くすのみならず斧(過去三日間唯一の外出の証)を彼の残したスーツに振り下ろし、全身全霊で己から彼の成分をデトックスしようとしているかのようです。
 あるいはそれだけ吐き出し続けてもなお元恋人に囚われている自らの身を恥じて業火に晒そうとしたのでしょうか。
 何れにせよ、たった30分の中にこれだけフラストレーションを詰め込んだ末に"解放"を体現したドラマはそうそうお目に掛かれないはずで。

"芸術のデパート"のついでに"技のデパート"。
舞の海の現役時代を覚えている者は、幸せである…。(・∀・)
同じアルモドバル監督の『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(1988)は
コクトーの『人間の声』を下敷きにしたブラックコメディ―。
女性陣それぞれのバラエティーに富んだブッ飛び具合よ。


Ⅱ. 『パラレル・マザーズ』

※日本語版ページが存在しないため、翻訳等でご覧ください。

 仕事で出会った一夜限りの関係の男性との子を身籠り年齢に鑑みてこれが母になる最後のチャンスと産み育てる決意をした女性と、クラスメイトの少年たちからの集団レイプによって身籠った子を悩んだ末に両親の反対も押し切って生かす決断をした少女、この二人のシングルマザーが見舞われる数奇な運命とそれに対する真実の希求の物語です。

フリーのカメラマンとして確固たる地位を築いているジャニス(演:ペネロペ・クルス)と、
世間体を過分に気にする父親と、自身の女優としてのキャリアに余念が無い母親の間で
常に自分の居場所を探しあぐねている少女アナ(演:ミレーナ・スミット)。
子の成育環境としては非常に対照的です。

 ジャニスが自分が妊娠したことを一夜限りのパートナーだったアルトゥーロ(演:イスラエル・エレハルデ)に打ち明け、今現在の妻との関係の清算を匂わせる彼の提案を固持して未婚の母となりますが、生まれた娘を彼に見せた際に「自分に顔も肌の色も似ていない」と指摘されたことから物語が大きく動き出します。DNA検査キットを使用した結果、ジャニスと我が子セシリアとの間に生物学的親子関係が無いことが判明するのです。

出自は大きく違いながらも偶然にも同じ産院の同室となって同日に出産したジャニスとアナ。
なんと産院内でお互いの赤ちゃんの取り違えが起きていたのでした。
些か偶然が過ぎるというか、昭和ミステリーの世界へようこそ・・・みたいな。

 すぐに取り違えの可能性に思い至ったジャニス。数か月後に彼女の自宅近くのカフェで働いているアナに出くわす展開はご都合主義的ではありますがそこは大きな問題ではありません。
 住み込みメイドとして穴を雇ったジャニスは、明確な意図は告げないまま秘かに彼女とセシリアのDNA検査を行い、アナこそセシリアの本当の生物学的母親であると確信するに到ります。
 まだ赤子とはいえお互いの子の取り違えを告白することだけでも相当なプレッシャーの筈ですが、対するアナの子(つまりは本当はジャニスとアルトゥーロの子)は事故死してしまったことが解り、絶望的なまでにその真実の告白のハードルが上がります。ジャニスにとり、それは即自分の子を失うだけなのです。
 
 こうした己の都合とモラルとの相克はドラマになり易く、おそらくは邦画や他の地域の洋画であれば、そのままジャニスが口を噤んでセシリアが大きくなってから真実が明るみに出る、あるいは真実に気付いたアナの口を封じようとジャニスが彼女を殺めてしまう…といった、いわば"秘する"ことによるドラマ作りの方向に流れるハズです。
 しかしながら本作では主人公のみならず他の登場人物全てが、まるで真実を奉じることあるいは己に正直であることを至上命題にして生きているかのようです。

 それは自身の不審な態度に対するアナからの追求が有ったにせよ早々にジャニスが取り違えの真実を告白したことがそうですし、それに対して"二度も娘を失いたくない"と亡き縋るジャニスを拒絶して即座にセシリアを連れて出て行ったアナの行動がそうです。
 そして、回復傾向にあるとはいえガン治療中の妻にジャニスを愛していることを打ち明けるアルトゥーロの姿もそうですし、アナの母親がシングルマザーとしてのアナの生活の厳しさを知りながらも自身の女優としてのステップアップのチャンスを優先させる姿もそうです。
 登場人物それぞれが結果的に周囲をどれだけ苦しめ傷付けるとしても真実や本音を至上のものとして疑わない展開はなかなかに馴染みの薄いものですが、それだけに印象的には違いありません。日本文学で考えると真っ先に思い浮かぶのはやはり島崎藤村『破戒』でしょうか。

※脱線・脱線・また脱線……(゜Д゜)


数か月とはいえ二人で一人の娘を育て、また寂しさからとはいえ互いに愛し合いもした女性たち。
互いへの憐憫・同情よりも己の本音をぶつける姿は一見薄情にも見えますがそれでこそ対等とも。
なまじお互いの社会的立場や経済状況に開きがあるため、
なおのこと正直であることが大切なのかも、と感じさせます。

 ジャニスの側はアナに対して「あなたの経済力ではセシリアを満足に育てられない」「あなたと違って私は若くない。これからもう子を産めるかわからない」と責めたり同情を乞うことは出来たでしょう。しかしそれでも結果的にお互いに傷付くだけでなく遺恨まで残してしまうのです。

 結果としてジャニスはセシリアへの思慕を断ち切りつつアナを彼女の真実の母と認め、自身はアルトゥーロと名実ともにパートナーとなって新たな家庭を築こうとするのですが、この物語のラストに到って登場人物全てが真実を希求する志向と物語展開がオーバーラップします。
 ジャニスの故郷の村にてアルトゥーロの属する財団が発掘調査を行い、そこでスペイン内戦の爪痕である殺された彼女の曽祖父と村の男性たちの埋葬された遺骨が見つかるのです。
 前述の本作を紹介していたTBSラジオたまむすび』のコーナー「アメリカ流れ者」で町山智弘さんが解説されていましたが、これこそは「過去を忘れて(即ち、真実から目を背けて)未来には進めない」という監督の強烈なメッセージであり、スペインがフランコ政権から民主化へ移行するなかで起こった反権威的な音楽・絵画・映像などの芸術活動に加わった70年代の過去からの自身の一貫したスタンスの顕れのようです。

 主人公だけならまだしも登場人物みんなに己の信条を代弁させるのはフィクション作品としてはやりすぎな気もしましたが、だからこその力強い作品に仕上がっている、ということは言えるでしょう。
 "逃げることで負う傷と立ち向かう傷で負う傷、果たしてどっちが深いか・・・"などと考えることはドラマ上だけでなく現実でも往々にしてあり得ますが、本作を観るにつけ、そもそもそうした損得の俎上に置いてしまうこと自体いかに陳腐な事かと冷水を浴びせられた思いです。

"嘘が無い=思い遣りが無い"ではないのはわかりましたが果たして長続きするのか。
というか、そもそも"関係の永続"にさして重きを置いていないということか。(´・ω・`)



Ⅲ. おしまいに

 という訳で今回は洋画の最新映画『ヒューマン・ボイス』『パラレル・マザーズ』について語りました。
 個人的にはスペインというと兎にも角にも情熱を想起させられ、本作の監督にもよく徴用されているアントニオ・バンデラスがまさしくまずもってのイメージですが、今回の2本も情熱的な部分は確かにありながらもその実、人間のあるいは国家の原罪を冷厳に衝く作風には肝の冷えるような迫力が有り、表面的な刺激は極力抑えた代わりに内部にマグマを抱えたかのような作品たちでした。

母は強し、真実は強し、真実を奉じる母は何よりも強し…。
ミツバチのささやき』(1973)
内戦により分断された夫婦と若き後妻それぞれの抱える苦しみ、
子どもたちはそんな状況下でも純真さを保ちつつ成長して行く。
独裁政権下で表立って政治批判が出来ないため、子ども向けの童話の中に
その意を秘かに込める作劇手法が生み出されたとかなんとか。
察するに海を隔てたお隣の大国でも同じような作風が生まれてそうですが果てさて…。

 "秘すれば花"ではないですが、「隠してはいけない」という物語の中に己の真意を隠しているのがまたこの上なくクール、ということで。
 ともあれ今回はこのへんにて。
 それでは・・・・・・どうぞよしなに。




※今日は11月22日・・・意地でも"いい夫婦の日"的なベタネタは放り込みたくなくて別のネタを探してたら…なんと94年11月22日がサターンの発売日だそうで。自分は当時若干9歳、兄は14歳でハイエンド機など高嶺の花だったのでお年玉は既有のスーファミのソフトに注ぎ込むの一択でした。後年になって手に入れはしたけど、友人も含めて初期の黒サターン持ってる人は居なかったな。たしかこの起動音、麒麟の川島さんが大好きでしたよね。(´・ω・`)

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