【最新作云々④】善意と悪意と好奇心の波状リンチを受け続けた男女が辿り着く先は”失楽園”かそれとも・・・ 映画『流浪の月』を観た
結論から言おう‼・・・・・・こんにちは。( ・ิω・ิ)
非常に汗っかきなので夏場は毎日の通勤時にアンダーシャツと背中の間にタオルを仕込む、O次郎です。
今日は、先週末に劇場で観てきた『流浪の月』の話です。松坂桃李さんと広瀬すずさんのW主演の邦画ですね。
ビジュアルだけ見ると恋愛映画のようで、実際もちろんその要素も有るのですが、誰にも言えない秘密を共有する男女二人が周囲の無理解に傷付けられながら惹かれ合いその距離感に苦しむ、という様相なので社会派ドラマと評した方がしっくりくると思います。
文中、ネタバレを往々に含んでおりますので、これから観に行くのでそれは避けたい、という方は鑑賞後にどうぞ。自分なりに印象的だったシーンや二人の行く末を考えてみましたので、解釈の一つとして読んでみていただければ之幸いでございます。
それでは・・・・・・デビ―――――――――――――――――ルッ!!
Ⅰ. 作品概要と人物相関関係
作中、印象的なセリフとして「人は自分が見たいようにしかものを見ない」という一説が出てきますが、それを悪意からのみならず善意から行う人間も居り、相手からすると”善意の決めつけ”の方が悪意のそれより遥かに傷つく、という告発をストーリー内で何度も重層的に描いていることが結果として本作をより重苦しく、救いの無い話に見せています。
それは例えば、文の母親がきちんと文と向き合って少女誘拐の濡れ衣の弁明を聞こうともせず、半ば軟禁のような形で実家の離れに何年も彼を住まわせて世間から”守った”ことがそうですし、更紗の婚約者がきちんと更紗と向き合って彼女のトラウマの根源を受け止めようとせず、彼女を寄る辺の無い犯罪被害者として自分の”庇護(支配に等しい)”下に置こうとしたことがそうです。
それに加え、文の過去の事件を知った交際相手はそれまでの彼との交際の思い出が有っても彼の無実の可能性には思い及ばず、自分に過去を伏せていた彼を糾弾することしか出来ません。また一方で、更紗の同僚のシングルマザーは文と更紗との再会にザワつく周囲と違って風見鶏的な判断は下しませんが、彼氏との時間を楽しむための体の良い娘のお守り役として無意識的に彼女を利用します。二人は、本当に近しいはず人間からも、全く無関係に等しい世間からも、そして日々の社会生活の中で親しくなりかけていた人からも、”異物扱い”というもれなく共通の烙印を頂戴することになります。
そしてまた、後述の通り、秘密を共有した二人だけが互いの理解者たり得るのに、それぞれが抱えるトラウマを癒す術をどちらも持ち合わせていない、というところが本作の最大のユニークネスであり、「この後どうすんのよ…」と投げっ放しジャーマン感のままにラストを呑み込めない所以だと思われます。
Ⅱ. キャストについて一言二言
・佐伯文 - 松坂桃李さん
大胆なヌードについては既に数年前の『娼年』でお披露目済みだったので
それ自体はショックではなかったのですが、三十代も半ばに差し掛かったにもかかわらず非常にスリムな体型を保っていらっしゃるのは流石としか言いようが無し!
本作は観ていて精神的にしんどくなる描写は有りますが、グロテスクだったりスプラッターだったりは心配する必要は無いのでそこらへん苦手な方も大丈夫だったのは良かったですね。昨年公開の『孤狼の血 LEVEL2』ではあまりの暴力描写と性描写の苛烈さからか、上映開始僅か30分足らずでそそくさと場内から出て行った女性陣を見ましたので…。
・家内更紗 - 広瀬すずさん
濡れ場に関しては既に2016年公開の『怒り』で米兵に暴行される役を演じられているので、それに比べれば、というところですが、カットによっては姉のアリスさんと本当に瓜二つだったのが個人的にビックリ。姉妹なので当たり前といえばそうですが、それだけ大人になられた、ということで。
・中瀬亮 - 横浜流星さん
幼少期の不遇な経験から次第に暴力的なモラハラぶりを露呈していく、という難しい役どころを見事に演じられていて、まさしく本作で以て役の幅が広がったのではないかと思います。性根からの悪人でないことも良く伝わり、最後まで観て、ベストキャスティングだろうという思いを新たにしました。
Ⅲ. 二人の行く末について
更紗は、両親の離婚の末に引き取られた親戚の家で従兄に性的悪戯を受け続けたことでそれがトラウマとなり、頻繁に夢で魘されるばかりか性行為そのものに強烈な忌避感情が拭えない。
一方で文は、先天的な病気で性機能が未熟であり、性行為が行えない。
それだけでも察するに余りある苦しみなのですが、家出して行く当ての無い更紗を文が保護したことが”誘拐”として世間に知られたことで、当人同士以外からは二人の間に暴行の加害者・被害者の関係を認めざるを得なくなる、ということが実に重すぎる十字架です。
エドガー・アラン・ポー「ひとり」
子供時分からぼくは 他の子たちと違っていた
他の子たちが見るように見なかったし
普通の望みに駆られて 夢中になったりしなかった。
悲しさだって、他の子と同じ泉からは汲みとらなかった
心を喜ばす歌も みんなと同じ調子のものではなかった
そしてなにを愛する時も、いつもたったひとりで愛したのだ。
だから 子供時分のぼくは
嵐の人生の前の 静かな夜明けのころのぼくは
善や悪のはるかむこうの、あの神秘に心をひかれたのだった。
そして今も、そうなのだ。
(一部抜粋)
作中、二人が15年前に暮らした数か月間の間の証として、上記のポーの詩が何度も引用されます。
近付けば無遠慮な世間に騒ぎ立てられ、離れれば容赦無い悪意や押し付けの善意に晒されて摘まみ出される。そして二人寄り添おうにも先天的・後天的にそれぞれ背負った十字架の所為で”男女”の関係は取り得ない…。
まさに八方塞がりの状態なので、このあと二人が選び得る未来は『失楽園』か『曾根崎心中』か・・・。
などと思ってしまいますが、本作での二人はまだ若く、主として年嵩の人間が抱えることになる”家庭”や”社会的立場”といった容易に捨てられないものは未だ抱えていません。
となると、”結ばれることは出来ないけれど離れることも出来ない若い男女が紡ぐ関係”ということでふと思い出した作品が有りました。1997年に放映された、香取慎吾さんと観月ありささん主演のTVドラマ「いちばん大切なひと」です。
登場人物が背負っている事情の重さは比べるまでもなく小さいのですが、強烈に近しい時間を過ごして二人だけの秘密を共有し、それがゆえに…というところで連想的に思い出したのだと思います。
うろ覚えながら、こちらの作品は二人が恋人関係になったものの結局ギクシャクしてしまい、納得のうえで男女の関係としては別れを迎えてお互いに別の伴侶を見つたものの、お互いの理解者として近しい立ち位置を保っている、という幕切れでした。当時小学生の自分は当然ながら最後は二人が結ばれてエンディングを迎えると思っていたので意外に感じながらも、”こういう関係性も有り得るのだな”となんとか頭で考えて納得しようとしていたようです。
こちらの作品のキャッチコピーは「恋人より、いとしい存在」ということで、奇しくもこの『流浪の月』にも符合するキーワードです。
「更紗は更紗だけものだ。他の誰にも自由にさせちゃいけない。」
とは作中の文の言葉ですが、自分が自分として立っていられる互いの距離感を見つけ出し、二人とも強く生きていくことを願うばかりです。
Ⅳ. 終わりに
というわけで、最新公開映画の『流浪の月』について自分なりに思ったこと考えたことを書いてみました。
普段からどうにもゴシップ記事を好んで読んでしまう自分を自覚しておりますので、本作を鑑賞した一つの証左として、記事に書かれている人の側にも思いを致さなければと胸にしつつ、今回はこれでお終いにさせていただきます。(´・ω・`)
本作を鑑賞された方、この記事を読んでいただいた方で何かしら思うところのおありの方はもしコメントいただければ勉強になってありがたいです。
それではまた・・・・・・どうぞよしなに。
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