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日本史論述ポイント集・中世④


今回は鎌倉後期を扱います。

蒙古襲来を経て得宗専制体制が確立するわけですが、得宗が権力の絶頂を迎えたまさにその時に、鎌倉幕府は崩壊に向かいました。それはなぜか?

中世②で説明したように、鎌倉幕府を支える2本の柱とは、封建的主従関係と惣領制でした。簡潔に言うと、この2本の柱が折れてしまったので、幕府は滅亡に向かうのです。

詳しくは下記のポイントをお読みいただくとして、私はこれまで、歴史の〈しくみ〉を理解しようということを、繰り返し述べてきました。

鎌倉幕府を支える2本の柱というのが、ここでの〈しくみ〉にあたります。

そして、その〈しくみ〉を理解していれば、なぜ幕府が滅びたのかについても、「○○があったから」というような単純な因果関係ではなく、歴史の〈しくみ〉として理解することができる。

そうしたことが、歴史本来の「学び」であると、私は考えています。

皆さんも、ぜひそこにたどり着いてください。


中世④・蒙古襲来と幕府の衰退

Q1 蒙古襲来後に幕府の支配体制にはどのような変化があったか。

A1

①警戒態勢を継続する中で、鎮西探題を設置し、荘園からの物資調達権や非御家人の動員権を朝廷から認められるなど、幕府の西国支配権が強化された。

②これと並行して、鎮西探題や全国の守護の半分以上を北条氏一門が占めるなど、幕府における北条氏の指揮権も拡大した。

③一方で、出兵の負担と恩賞の不足に苦しむ他の御家人は窮乏した。

④こうして、執権政治の合議体制は形骸化し、北条氏の家督を継ぐ得宗と、その家臣である御内人による私的な寄合で政務が行われる、得宗専制政治に移行した。


Q2 鎌倉後期に御家人が窮乏した要因は?

①分割相続の繰り返しによって所領が細分化された。

②貨幣経済の発達によって出費が増大した。

③こうした状況下で、蒙古襲来における出兵の負担と恩賞の不足が重くのしかかった。

④そこで、所領を借上に質入れするなどしたため、御家人はさらに困窮した。


Q3 永仁の徳政令の目的とその結果は?

A3

①御家人の救済を目的に、所領の質入れ・売却を禁止した。

②しかし、所領の無償返却は混乱を生じさせるだけに終わり、借り入れの算段を失った御家人はさらに困窮した。

③金銭に関わる訴訟を停止したことは、幕府の信頼低下につながった。


Q4 鎌倉幕府が滅亡した要因は?

①蒙古襲来における恩賞の不足などによって、困窮した御家人の信頼を失った。

②分割相続から単独相続への移行によって惣領制の血縁的結合が弱体化した。これは幕府の政治的・軍事的な基本単位が失われたことを意味する。

③得宗による権力の独占と御内人の台頭は、御家人の離反を招いた。


Q5 悪党はどのような存在か?また畿内やその周辺に出現したのはなぜか?

①悪党とは、現地での支配権を求める新興武士層のことで、年貢納入を拒否するなど武力を用いて領主層に抵抗した。

②農業生産力の向上による名主層の成長を背景に、地頭と荘園領主の力が拮抗する畿内において、支配秩序の間隙を縫う形で出現した。



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