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日本史論述ポイント集・文化⑤

今回は、近現代の文化です。

明治日本は、西洋から制度・技術・文物を取り入れ、近代化を達成しました。欧米以外の国で日本だけが19世紀末の段階で近代化を成し遂げたのはなぜか?これは世界史的にも大きな問いですが、一つの答えとして、近世の段階で近代を受け入れる基盤が出来上がっていたから、ということが指摘できます。

少し古いですが、地主制の発展について問うた1978年度の東大の問題では、以下のようなリード文が掲げられていました。

明治新政府は、富国強兵を標語に近代的な国家の建設をめざして、それまでの封建的な身分制度を廃止し、経済活動に関する諸制限を撤廃するなど、大きな変革をおし進めていったが、この変革が、いくらかの抵抗はありながらも、ほぼ順調に遂行されたのは、既に江戸時代において、それを可能にする条件が、ある程度まで熟していたためであったと考えられる。さらにこの変革を経過することによって、それまでの趨勢はいっそう発展し、社会の様相を変化させてゆくことになった。

近世において、貨幣経済の発達とともに農民層の階層分化が進み、後期の段階で地主制は成立していました(近世⑤参照)。そして、地租改正・松方財政をへてさらに発展し、資本主義の基盤となる資本と労働力を準備したわけです(近代⑤参照)。

同様のことは、教育についても言えるでしょう。江戸時代には、町村内の寺社などに設けられた寺子屋で、読み書きそろばんを中心とする基礎教育が行われました。それが、近代的な教育制度に接ぎ木され、明治末には就学率はほぼ100%に達しました。

今回の内容は、こうした、近代を受け入れる基盤にあったものを意識しながら、理解を深めてください。



文化⑤・近現代の文化

Q1 戦前の教育制度はどのような変遷をたどったか?

A1
①1872年の学制では、フランス式の学区制が採用され、国民皆学による近代的市民の育成が目指されたが、画一的な制度に各地では学制反対一揆がおこった。
②そこで、1879年の教育令では、アメリカ式の自由主義教育が目指され、小学校の管理の権限も地方に移管されたが、翌年には改正されて政府の監督責任が強化された。
③1886年の学校令により、小学校・中学校・師範学校・帝国大学からなる学校体系が整備された。
④その後、1890年の教育勅語、1903年の国定教科書など、国家主義的な色合いが濃くなるとともに、教育に対する国家の統制も強まった。
⑤1907年に義務教育が6年間に延長されるなど、明治末年には初等教育が確立した。(就学率は97%近くに)
⑥大正時代には、進学熱の高まりと、科学者・技術者の育成という産業界の要請を背景に、1918年に大学令・高等学校令が出され、高等教育の充実が図られた。
⑦日米開戦の年の1941年には小学校が国民学校に改組され、皇国民の錬成が図られた。


Q2 徳富蘇峰の平民主義と、三宅雪嶺らの国粋主義は、それぞれどのような主張か?また、どのような背景から生じたものか?

A2
①1880年代には、朝鮮問題(壬午軍乱・甲申事変)や条約改正問題を機に、民権論者の中にも国権論を説く者が現われた。
②こうした中で、徳富蘇峰は、政府主導の欧化政策に対して、国民の立場から近代化を推進する平民的欧化主義を説いた。
③一方、三宅雪嶺らは、日本の伝統的な文化や美意識を称揚し、民族的なアイデンティティを主張する国粋主義を説いて、卑屈な西洋崇拝を批判した。


Q3 自然主義文学とはどのような文学か?また、日本においてはどのように発達したか?

A3
①自然主義とは、人間社会の現実を合理的・客観的に写し出そうとする立場のことである。
②日本では、日露戦争の前後に田山花袋・島崎藤村らが自然主義文学の作家として現れたが、私小説の形で発達を遂げた。

Q4 戦前における農村の生活はどのようであったか?

A4
①都市部では洋風化が進んだのに対して、地方の農村では交通・通信の未整備により浸透せず、農作業の関係から旧暦が用いられるなど、生活様式は変わらなかった。
②大正時代にも近代化は進まず、都市部との格差が広がった。


Q5 大正時代に大衆文化が発達したのはなぜか?

A5
①大戦中の重化学工業を中心とする産業の発達によって都市人口が増加し、生活の洋風化・近代化が進んだ。(オフィスビル・ターミナルデパート・文化住宅など)
②明治末年までに初等教育が確立し、識字率が向上していたことを背景に、出版・新聞などのマスコミが発達し、全国紙の発行部数は100万部を超えた。


Q6 戦後の教育制度の特徴と理念は?

A6
①教育基本法では、日本国憲法における個人の尊重の精神に基づき、男女共学や教育の機会均等などが定められた。
②学校教育法では、単線的な六・三・三・四制の学校体系に改められた。
③教育行政の地方分権化を目指して教育委員会法が定められたが、その後、委員は公選制から首長の任命制に改められ、また、教科書検定制度が強化されるなど、教育に対する中央集権的な統制が強められた。

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