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日本史論述ポイント集・近世①
今回から近世へと入っていきますが、まず第一に考えてほしいのが、〈中世と近世の違い〉ということです。
中世の鎌倉幕府・室町幕府も、近世の織豊政権・江戸幕府も、武家政権ということでは同じです(中世①で説明したとおり、中世は単純に「武士の時代」というのではなく、「実力社会」ということでした。)
では何が違うのか?
ズバリ言うと〈権力のあり方〉の違いです。
中世には統一的な権力は現れませんでした。鎌倉時代は公武二元支配でしたし、室町時代も分権的な状況で、そうした中からこそ〈自立〉的な存在が生まれたと言えます(中世⑦参照)。
これに対して、近世には、豊臣秀吉が天下を統一して一元的な権力者となります。徳川家康は征夷大将軍への任命によって全ての大名に対する指揮権の正統性を認められました。「天下人」の登場です。
こうした統一権力の出現によって社会がどう変わったのか?それは次回の幕藩体制とも関わるテーマですので、まずは今回、近世社会の礎を築いた大閤検地を中心に、理解を深めてください。
近世①・織豊政権
Q1 西国の大名が宣教師の布教活動を保護したのはなぜか?
A1
①ポルトガル人・イスパニア人による南蛮貿易が、布教活動と一体化する形で行われ、貿易船は大名が布教を認めた領国にのみ寄港したため。
②また、洗礼を受けた大名(キリシタン大名)は、家臣・領民も入信させることで、宗教的な紐帯によって主従関係や領主権を強化しようとした。
Q2 安土城の立地条件は?また、織田信長は安土城下でどのような経済政策を行ったか?
A2
①琵琶湖水運を背後に控え、上海道(中山道)に面するという水陸交通の要所に立地した。
②楽市令を発し、座の特権を廃するとともに、免税措置を取ることで商工業者を誘致し、自由な商業活動の保証による経済の活性化を図った。
Q3 織田信長と豊臣秀吉とでは天下統一を目指す手法としてどのような違いがあったか。
A3
①織田信長は、「天下布武」の印判を用いることで武力による天下統一の意志を示し、戦国大名を倒し一向一揆を平定していった。
②一方、豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康と和睦を余儀なくされたことから、天皇や朝廷の伝統的権威を利用する路線に転じた。(関白の名の下での領地確定の委任・後陽成天皇の聚楽第行幸)
Q4 大閤検地にはどのような意義があったか?
A4
①全国の土地の生産力を米量で統一的に掌握することが可能となった。(石高制)
②検地帳に耕作者を登録することで(一地一作人)、本所・荘官・名主などの複層的な権利体系が解消されて、荘園が最終的に解体された。
③農民は、耕作権が保証される一方で、持ち分の石高に応じた年貢が課されるとともに、刀狩などと合わせて兵農分離が完成した。
Q5 戦国大名の検地と豊臣秀吉の太閤検地の違いは?
A5
①戦国大名の検地は家臣・名主に収入額を自己申告させる形で行われ(指出検地)、実施方法や基準もそれぞれに異なった。
②これに対して、豊臣秀吉の大閤検地では、土地の面積や石高が全国統一基準のもとで計測・調査された。
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