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日本史論述・チャレンジ課題・古代

この「チャレンジ課題」は、私が出講している高校の課外講座で、毎回の授業の終わりに生徒に取り組ませているものです。

学んだ内容の理解度を測るのに、文章を書かせることほど良いものはありません。自分では分かったつもりでも、いざ文章となると書けないもの。それは理解があやふやだからです。

授業では、その日の内容に即した課題を与えていますが、教科書・用語集・図説、なんでも参照して良いこととしています。ただ読むよりも、書くということを目的に読んだ方が、より能動的に文章と向き合うことができて、理解が深まるからです。

この記事では、古代から11問を用意しました。中にはかなり難しいものや、答えが一意に定まらないものがありますが、それでも構わないと思っています。生徒が自ら調べ、考え、書くことが大切ですので。

皆さんも、100字程度で答案を作ってみてください。

1.
古墳中期(5世紀)には、墳丘長約360メートルの造山古墳をはじめとして、地方にも巨大な前方後円墳が見られるが、古墳後期(6世紀)には見られなくなる。これはどのようなことを意味するか。ヤマト政権の地方支配の進展という観点から説明しなさい。

2.
『宋書』倭国伝には、478年(昇明2)に倭王武が朝貢したとの記述があるが、その後、7世紀初めの遣唐使まで、100年以上にわたって中国への遣使は途絶える。それはなぜか。中国の状況およびヤマト政権の状況の両面から考えなさい。

3.
渡来人はヤマト政権においてどのように組織され、また、どのような役割を果たしたか。説明しなさい。

4.
乙巳の変と壬申の乱は、ヤマト政権による中央集権国家の建設の過程においてどのような意味をもったか。それぞれの歴史的意義を説明しなさい。

5.
律令税制では、国司の命令で土木工事などに奉仕する雑徭、庸・調を都まで運搬する運脚など、さまざまな労役が正丁(成年男子)に課せられたが、それはなぜか。律令が制定された8世紀当時の経済の特質という観点から考えなさい。

6.
7~8世紀には多くの女帝が現れたが、それはなぜか。皇位継承のあり方という側面から考えなさい。

7.
教科書に「班田の実施には郡司など地方豪族の協力が必要であった」という記述があるが、それはどういうことか。国司と郡司の関係を踏まえて説明しなさい。

8.
8世紀末に一部の辺境を除いて軍団兵士制が廃止され、郡司などの子弟による健児の制が採用された背景を、国際・国内の両面から説明しなさい。

9.
藤原道長は後世に「御堂関白」と呼ばれたが、関白の任に就いたことはなかった。道長が関白にならなかった理由と、それでも「御堂関白」と呼ばれるようになった理由を、摂関政治の権力基盤を踏まえて考えなさい。

10.
10世紀末に信濃守・藤原陳忠のような強欲な受領が出現したのはなぜか。国司の役割の変化と国司任命の実態から説明しなさい。

11.
延喜の荘園整理令と延久の荘園整理令について、目的と結果の両面から比較しなさい。

〈解答例〉
1.
 5世紀の段階では地方豪族はヤマト政権において重要な地位を占めていたが、6世紀になると、各地に屯倉が設置されるなど、ヤマト政権に服属する形へと変化したことによる。

2.
中国で南北両朝とも王朝の興亡が激しさを増す中で、地方豪族の抵抗を排しながら従属させたヤマト政権は、冊封体制から脱して独自に国内の支配体制を構築する道を選択したため。

3.
文書の作成にあたる史部、鉄器の生産を行う韓鍛冶部など、ヤマト政権は渡来人を職能別に伴の組織に編成することで、大陸の先進的な技術の導入を図り、国内の統治に役立てた。

4.
乙巳の変では蘇我本宗家は滅ぼされたが、協力した有力豪族の抵抗に遭い改革は進まなかった。一方、壬申の乱では自らの武力で即位した天武天皇が有力豪族を一掃したことで絶対的な権力を握り、中央集権国家の建設が進んだ。

5.
米をはじめとする生産性が高くない当時の経済段階においては、租は安定的な税収とはなりえず、生産物の貢納よりも人頭税としての労役の負担に頼る以外になかったから。

6.
皇位の世代間継承が行われていた7世紀には、世代交代時などの政争を回避する意味から女帝が置かれた。8世紀には嫡子継承に移行したが、天皇親政が原則であったため、嫡子が幼少時に母などが中継ぎの役割を果たした。

7.
都から派遣された中下級貴族である国司は、地方豪族から任命された郡司を監督下においたが、班田などの民衆を支配する末端実務は、在地支配力をもつ郡司に頼ったということ。

8.
唐の衰退により国際的緊張が緩和される一方で、国内では班田農民の浮浪・逃亡が増加する中で、徴兵に基づく軍団兵士制を廃止し、郡司の子弟を中心とする健児を組織することで、班田農民の負担軽減と軍事力の質的向上を図った。

9.
道長は具体的な権限を伴わないため関白の地位に就かなかったが、四天皇の外祖父として絶大な権力をふるい、左大臣の立場から官吏の任免権を握り続けたから。

10.
10世紀半ば、国司に一定額の徴税を請け負わせて地方支配を委任する方針に転換されると、国司に任命された中下級貴族は現地で蓄財に励み、官吏の任免権を握る藤原氏や皇族に寺社造営費などを提供して官職を得ようとした。

11.
延喜の荘園整理令では班田再建を目指して富豪の輩による寄進が禁止されたが、失敗に終わり律令体制の限界が明らかになった。一方、延久の荘園整理令では天皇直属の記録所で券契が厳しく検査され、荘園と公領の区分が明確になった。

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