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日本史論述ポイント集・近世⑤

今回は、8代将軍徳川吉宗による享保の改革についてです。

吉宗が将軍位についた18世紀前半は、三都を中心とする全国流通網が形成されるなど経済が発展する一方、各地にも貨幣経済が浸透して幕藩を支える村の組織が揺らぎつつありました。

こうした経済・社会の変化に対応すべく行われたのが享保の改革です。

Q3・Q4でその変化を扱っていますので、先に目を通していただいた方が良いかもしれません。

そのうえで、享保の改革が目指したもの・行ったことをつかんでください。


近世⑤・享保の改革

Q1 享保の改革が目指したことは?

A1

①側用人を排して将軍の意志を幕政に直接反映できるようにした。また、足高の制などを通じて有能な人材の登用を図った。

②年貢増徴を中心に財政の再建を目指した。

③防火対策と救貧政策を中心に江戸の都市政策を進めた。(広小路の設置・町火消の組織/小石川養生所の創設など)

④公事方御定書の編纂など司法改革も行った。


Q2 享保の改革ではどのような年貢増徴策がとられたか?

A2 

①検見法を定免法に改めて、年貢率の引き上げと安定を図った。

②三都の商人資本の力を借りて大規模な新田開発を行った。(町人請負新田)

③商品作物の栽培を奨励し、畑地からの年貢増収を図った。


Q3 18世紀前半の物価動向に対して、享保の改革ではどのように対処したか?

A3

①新田開発や農業技術の進歩で米の生産が増加し、米価が低迷する一方で、急速な経済成長と全国流通網の形成により物価は上昇していた。(米価安の諸色高)

②このような物価動向は、幕藩にとって年貢収入の減少と支出の増加を意味するものであり、財政が悪化した。

③そこで、享保の改革では、株仲間を公認し、三都の問屋商人を通じて物価の調整を図る一方、その一環として堂島米市場を公認し、米価の引き上げを行おうとした。


Q4 江戸時代を通じて、百姓や村の状況はどのように変化したか?

A4

①17世紀には、新田開発が進むなか、複合大家族から単婚小家族独立して集約的な農業を行い、小農経営が一般化した。

②18世紀後半になると、小百姓が貨幣経済に巻き込まれて困窮し、質流れの形で田畑を失う一方、村役人を務める有力百姓は小百姓が手放した田畑を集積し、地域の経済を担う豪農に成長した。(農民層の階層分化)

③19世紀には、とりわけ天保の飢饉以降、北関東では農村の荒廃が進む一方、西南では生産力が高まるなど、地域間の格差が拡大した。また、豪農が工場制手工業を行う一方、日雇いの貧しい農民も増加しており、村の自治に支えられた幕藩の支配は行き詰まった。


Q5 江戸時代を通じて百姓一揆の形態はどのように変化したか?

A5

①17世紀の段階ではは、村の代表者が要求をまとめて代官や領主に直訴する代表越訴型一揆が一般的であった。

②18世紀に入ると、全村民が参加した惣百姓一揆の形をとるようになり、藩領全体に広がることもあった(全藩一揆)。一方で、農民層の階層分化を背景に、小百姓が村役人・豪農の不正を追及する村方騒動もおこった。

③幕末に近づくと、社会的な変革を求めて蜂起する世直し一揆が見られ、貧農が地主や高利貸を襲った。


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