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『東大のディープな日本史』アーカイブ②・浮浪・逃亡した農民はどこに行ったのか?

 『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史 傑作選』の刊行を記念して、過去に収録した問題から特に面白い(と私が思う)ものをアーカイブとして公開していく第2弾は、古代の浮浪・農民に関する1990年度の問題です。東大日本史の面白さ・奥深さは、史料文(資料文)を読み込んでいくことで、歴史に対する固定観念が打ち破られ、新しいこの国の〈かたち〉が見えてくることにあります。本問はそれが凝縮されている問題です。

・律令国家の対〈浮浪・逃亡〉政策

――詔して曰く、「諸国の役民、郷に還らむ日、食糧絶へ乏しくして、多く道路に饉ゑて、溝壑に転填すること、其の類少なからず、国司等宜しく勤めて撫養を加へ、量りて賑恤すべし。如し死ぬる者有らば、しばらく埋葬を加へ、其の姓名を録して、本属に報げよ」と。

 『続日本紀』和銅五(712)年春正月乙酉(16日)条にある記述です。現代語訳してみましょう。「都での労役を終えた諸国の役民は、郷里に帰る日に、食糧が絶えてしまい、道すがらに飢えて道端の溝に転がり落ちているという類が少なくない。そこで、国司らは努めて彼らを憐み養い、困窮の度合いに応じて物を与えなさい。死者がある場合は、埋葬したうえで、本籍地に報告しなさい」。そのような詔が出たというのです。役民の壮絶なまでの労苦が生々しく伝わってきます。

 律令制下では、租・庸・調のほか、兵役や、この史料でも述べられている臨時の労役、さらには、庸・調を京まで運ぶ運脚といったさまざまな負担が、班田農民に課せられていました。そして、そうした課役を逃れるために浮浪・逃亡する者が絶えなかったということは、学校の授業で記憶のある方も多いかと思います。

 ですが、本当の問題は〈その後〉です。浮浪・逃亡したといっても、この世から消えてしまったわけではありません。彼らはどこへ行ったのでしょうか? また、律令国家の立場からすれば、班田農民の浮浪・逃亡を許してばかりでは、税収が減る一方です。どのような対策を講じたのでしょうか?

 次の東大日本史の問題は、史料をもとにして、教科書でも触れられていない浮浪・逃亡の〈その後〉を問います。

〈問題〉

 古代の農民はしばしば浮浪・逃亡を行った。それに関する以下の⑴~⑸の文章を参考にして、下記の設問に答えよ。

⑴ 689(持統3)年に、政府は、国司に対して、「今年の10月から、戸籍を造れ。9月までに、浮浪を探し出してつかまえよ」と命令した。

⑵ 732(天平4)年に作成された山背国愛宕郡の計帳には、350人ほどの住民の名が見え、その約10パーセントにあたる人々が逃亡・移住していることが記されている。

⑶ 785(延暦4)年の越中国のある東大寺荘園に関する文書には、その北の境界の標識として、浪人の家が記載されている。9世紀中ごろには、この荘園は、耕作していた浪人が他の荘園で耕作するようになったために、経営が衰退してしまったという。

⑷ 797(延暦16)年に、政府は、「浮浪した者が、各地の荘園に集まり、その主の勢力を借り、調庸を納めることを免れている。国司・郡司はその人数を調べ、毎年、浮浪人帳に登録し、調庸を徴収せよ」と命令した。

⑸ 881(元慶5)年に、政府は、中央官司の運営のために畿内諸国に設置した田の経営を、一般の農民とともに浪人にゆだねることとした。

設問

A 浮浪・逃亡に対して、政府がとった政策は、どのように変化していったと考えられるか。4行以内で述べよ。

B 政府の政策の変化の背景には、浮浪・逃亡した者たちのどのような活動があったと考えられるか。2行以内で述べよ。

                         (1990年度・第1問)

・本籍地主義から「不論土浪人」政策へ

 設問Aは浮浪・逃亡に対する政策の変化を問うています。史料文を見ていきましょう。

 まず、⑴で述べられている689(持統3)年は、飛鳥浄御原令が施行された年です。翌690(持統4)年には、これにもとづいて庚寅年籍が作成されています。日本初の全国的戸籍である670(天智9)年作成の庚午年籍が血縁的関係によったのに対し、庚寅年籍では同時に行われた行政村落(里)の再編成に基づいて地縁的関係から戸が編制され、以後、令の規定にしたがって6年毎に戸籍が作成されることになりました。

 史料文⑴を読むと、その最初の段階から浮浪対策に追われていたことが分かります。浮浪とは戸籍に登録された本籍地を離れた者のことをいうのですから、戸籍が作られる前に浮浪がいるというは不自然に感じますが、政府が掌握しきれない者も含めて「浮浪」と総称したようです。いずれにせよ、「浮浪を探し出してつかまえよ」と命令されているとおり、本籍地に連れ戻す方針でした。

 『続日本紀』霊亀元(715)年五月朔(1日)条には、「諸国の朝集使に勅して曰く、天下の百姓、多くの百姓、多く本貫に背きて、他郷に流宕して課役を規避す。其の浮浪逗留して三月以上を経たる者は、即ち、土断して調庸を輸さしむること、当国の法に随へと」とあります。3カ月以上本籍地(本貫)を離れて他郷に浮浪逗留している者は、調べ上げて逗留先(当国)の法にしたがって調庸を納めさせよというのです。もちろん、連れ戻して本籍地でも課税することを前提としています。つまり、本籍地と逗留先での二重課税というペナルティを設けることで、浮浪を取り締まろうとしたのです。

 ですが、史料文⑵を読むかぎり、「約10パーセントにあたる人々が逃亡・移住している」というのですから、この罰則が浮浪防止に効果があったとはお世辞にも言えません。というよりも、10人に1人もの納税漏れがあったら(⑵で述べられている「計帳」とは、庸調を賦課するために毎年作成された台帳です)、財政が立ち行かなくなるでしょう。

 そこで、方針が転換されます。史料文⑷をご覧ください。これは、浮浪人帳を作成して逗留先で庸調を納めさせることを国司・郡司に命じた、平安初期の797(延暦16)年の太政官符です。これに先立って、奈良時代中期の736(天平8年)には、逗留先での輸納を希望する者の帳簿を別途作成せよとの命が出されています(そのような希望者がいるとも思えませんが)。いっこうに減らない浮浪・逃亡という現状を踏まえ、本籍地に連れ戻す方針から、逗留先で浮浪人のまま把握するという方針へと転換したのです。

 それは、戸籍による班田農民の掌握・支配という律令国家の大前提がなし崩しとなったことを意味しています。こうして、平安時代には、戸籍登録者(土人)と浮浪人とを区別することなく課税するという、「不論土浪人」政策が展開されました。

・国家公認で初期荘園で働いていた浮浪人

 次に、浮浪・逃亡した班田農民はどこへ行ったのか、という視点から考えてみましょう。政府の政策の変化の背景にあった、浮浪・逃亡した者の「活動」を問うのが設問Bです。史料文⑶は、荘園内に「浪人の家」があったことが記されています。ここでいう荘園とは、743(天平15)年に出された墾田永年私財法に基づく初期荘園のことです。浮浪・逃亡した者は、初期荘園の労働力となっていたのです。

 ところで、現在では、墾田永年私財法は班田制の不備を補うものであったと考えられています。

 戸籍に登録された6歳以上の男女に口分田を班給する律令制下の班田制は、唐の均田制にならったものでしたが、両者には大きな違いがありました。それは、唐の均田制が口分田とは別に戸で世襲される永業田を認め、口分田の受田額(面積)も上限を定めたものであったのに対し、日本の班田制は受田額が実際の班給額だったという点です。つまり、唐の均田制では民衆による小規模の開墾を受田額に組み込むことができましたが、日本の班田制ではそうした融通が利かず、また、政府もそれを掌握する術がありませんでした。

 また、唐の均田制は広大な中国の大地を前提としたものであって、それを狭い日本の国土に適用しようとすれば、たちまち口分田の不足に陥ってしまいます。そこで、開墾した田地の私有を永年にわたって認めることで墾田を促し、あわせて政府による掌握を可能にするという趣旨で出されたのが、墾田永年私財法でした。

 それゆえ、かつては墾田永年私財法は班田制の後退を示すと説明されていましたが、現在では学校用教科書『詳説日本史』(山川出版社)にも「この法は、政府の掌握する田地を増加させることにより土地支配の強化をはかる積極的な政策であった」(45ページ)と記述されているとおり、班田制を実情に即して補強したとの見方が通説となっています。

 また、こうした観点から、墾田永年私財法に触発される形で成立した初期荘園を捉え直すと、たんなる有力貴族・大寺院による私有地の拡大とは違った側面が浮き彫りになります。例えば、史料文⑷で挙げられている東大寺が越前国(現在の福井県)に経営していた道守荘は、最盛期には326町歩(約320ヘクタール)の面積まで達しましたが、口分田との区画整理や班田農民の動員に、郡司が協力していました。不輸の権を獲得した平安中期以降の寄進地系荘園とは異なり、初期荘園は租を納めるべき輸租田でした。税収と開墾地の増加を図りたい政府がバックアップするのは当然でしょう。

 そして、その初期荘園を浮浪・逃亡した者は逗留先としたのです。荘園の所有者からしても、開墾には労働力を必要としました。しかし、いま見たとおり初期荘園は政府のお墨付きが与えられていたのですから、「不法労働者」ではありません。史料文⑷のように律令国家は浮浪人帳を作成して調庸を課しました。実情に即した班田制の改革によって、墾田の開発と「不論土浪人」という方向に、現実は動き出したのです。

・「富豪浪人」の成長

 ところで、史料文⑶の後半の記述、「9世紀中ごろには、この荘園は、耕作していた浪人が他の荘園で耕作するようになったために、経営が衰退してしまった」は、何を意味しているのでしょうか? 初期荘園は律令(墾田永年私財法)の強制力を根拠としていましたから、律令制が機能不全に陥った9世紀後半には消滅します。一方、荘園内で働く浮浪人の中からは、富と技術力を蓄えて「富豪浪人」と呼ばれる者も現れました。彼らは先行きの見えない初期荘園を見捨て、私営田経営の経営に乗り出すのです。

 また、財源の確保のため政府は直営田の経営に乗り出します。史料文⑸で取り上げられている「中央官司の運営のために畿内諸国に設置した田」を官田(元慶官田)といい、その他にも、大宰府管内の公営田や諸官司が所有する諸司田などがありました。そして、その経営を任されたのが「富豪浪人」であったことが、⑸の記述から読み取れます。

 しかし、彼らはもはや「浪人」ではなく、周辺農民への私出挙の貸付などを通じて地域の有力者へと成長した、「富豪の輩」と呼ばれるべきディべロッパー的な存在でした。政府は彼らへの財政的な依存度を強めていきます。10世紀半ばには、政府から一定額の税の徴収を請け負って一国の統治を委ねられた国司が、名(田)を単位として国内の土地を区分し、彼らに田地の耕作を請け負わせるようになりました。

 このように見てくると、〈重税に苦しめられて浮浪・逃亡した班田農民〉というイメージは一変します。彼らは律令制という中央集権的なのシステムを内側から食い破り、新しい時代の原動力となったのです。

〈解答例〉

A戸籍支配を原則とした政府は、はじめ浮浪者を本籍地に連れ戻す方針であったが、その数が増加し荘園内で耕作するなど取締りが困難になった。そこで8世紀後半には浮浪人帳に登録して逃亡先で庸調べを課す方針に転換し、9世紀には官田の経営にも利用した。
B初期荘園内での労働力により蓄えた富と技術力で墾田の開発を進めるなど富豪浪人へと成長し、官田経営を委ねられる者も現れた。

後記

 近年の東大日本史は、土地制度というよりも地方支配のあり方に関心が移っているようで、郡司の地位の低下を下敷きとして考える問題がよく見られます。また、教科書の記述もそのあたりが手厚くなっています。
 なお、〈傑作選〉には農民が逃亡した理由を問う問題を収録しました。お楽しみに!

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