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日本史論述ポイント集・古代⑦

今回は、古代後期の土地制度について見ていきますが、たんに寄進地系荘園が発達したというだけでなく、国司が支配する公領(国衙領)と相並ぶ土地所有体系(荘園公領制)が成立したということを、押さえておきたいです。

前回見たとおり、権限が強化され任国の支配を任された国司(受領)ですが、開発領主にすべての土地を寄進されては一定額の税の徴収ができません。

そこで、国司は開発領主の取り込みを図ります。開発領主の勢力に合わせて国内を郡・郷・保に再編して、彼らを郡司・郷司・保司に任命したのです。

一方、開発領主もいわば「リスク分散」の観点から、半分は寄進、半分は国司の支配下というようにバランスをとる。こうして、荘園と公領は相並んだのです。

さて、荘園と公領の内部は同じ構造であったということにも注意してください。

まず、現地で支配するのはともに開発領主です。(荘官/郡司・郷司・保司)

そして、土地は名田を単位に区分され、有力農民である名主が請け負いました。(負名体制)

ここまで押さえておくと、中世に入ってから、地頭の任務や荘園侵略についてよく理解できます。前回も述べたように、歴史の〈しくみ〉を理解するよう心がけてください。


古代⑦・荘園の発達

Q1 寄進地系荘園はどのようにして成立したか?

A1

①国司から名田を請け負う田堵・大名田堵は、やがて自ら山林原野を切り開く開発領主となると、国司の支配から逃れるため、都の権門勢家に寄進した。

②寄進を受けた権門勢家は、領家として不輸・不入の特権を与え、荘園を保護した。

③領家はさらに上級の皇族・貴族に寄進して本家と仰ぎ、こうして、最有力者に寄進が集中する寄進地系荘園成立した。


Q2 延喜の荘園整理令と延久の荘園整理令の相違点は?

A2

①延喜の荘園整理令は、班田制の再建を目指して富豪の輩による寄進を禁止するなど、荘園を否定するものであった。

②これに対して、延久の荘園整理令では、天皇直属の記録所を設置して、券契不明荘園を停止した。

③摂関家も例外としなかったため荘園の整理が進んだが、券契が確認された荘園は認められた。つまり、延久の荘園整理令は荘園と公領の区分が明確化されたと言える。


Q3 公領の支配体制は?

A3 

①国司は開発勢力の勢力範囲に合わせ、国内を郡・郷・保に再編成した。

②開発領主を郡司・郷司・保司に任命して、取り込みを図った。


Q4 荘園公領制はどのような構造であったか?

A4

①荘園・公領ともに開発領主が任官されて現地の支配にあたった。

②荘園・公領内は名田を単位に区分され、有力農民が名主として請け負った。

③名主は作人、下人・所従などを使って名田を耕作し、年貢・公事・夫役を納めた。

④このように、院政期には、寄進によって成立した荘園と、国司が支配する公領(国衙領)とが相並ぶ土地所有体系が成立した。これを荘園公領制という。


Q5 墾田地系荘園と寄進地系荘園の違いは?

A1 

①墾田地系荘園は、貴族や大寺院が主体となって開発を行ったが、朝廷によって掌握されており、輸租田でもあった。

②一方、寄進地系荘園は、開発領主から権門勢家への寄進によって成立し、不輸・不入の権を通じて朝廷の支配が及ばなくなった。


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