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日本史論述ポイント集・戦後②

今回は、戦後日本の外交について、講和条約の調印から見ていきます。

講和の形式には、ソ連を中心とする東側陣営(社会主義国)を含めた全交戦国と講和する全面講和と、アメリカを中心とする西側陣営(自由主義国)とのみ講和する単独講和の2つがありました。

アメリカの意向は日本を西側陣営の一員に組み込む単独講和でした。そして、時の吉田茂首相もそれが得策であると考えました。(後述)

しかし、それは日本がアメリカに従属する立場を余儀なくされるということでもありました。実際、講和条約とセットの形で結ばれた日米安保条約(旧安保条約)は、米軍の日本防衛義務が明記されていない片務的な内容でした。

それでも吉田首相がこれを甘んじて受け入れたのは、日本が早期に独立を回復するチャンスであるとともに、戦後の国際社会で生き延びる唯一の道であると考えたからです。

そして、対等な日米関係の構築は後世への宿題として残しました。

今なお時にアメリカの意向に振り回されていますから、その宿題を片付けられたかというと疑問符がつきます。しかし、アジア諸国との関係を中心に、日本外交が着実に歩を進めてきたのも事実です。

その時どきによって日本外交が目指していたものは何であったのかを理解するように努めてください。


戦後②・戦後日本の外交

Q1 吉田茂首相が単独講和の形式を選択した理由は?

A1

①アメリカの思惑は日本国内に基地を置くことにあると見抜いていた。

②また、再軍備の負担を避けて経済復興に専念すべきだと考えていた。

③そこで、西側諸国とのみ講和する形式を選び、施設提供の見返りに独立後の安全保障をアメリカに依存するのが得策であると判断した。


Q2 岸信介内閣が安保改定で目指したことは何か?また、どのような内容が問題とされたか?

A2

①米軍の日本防衛義務が明記されていないなどの旧安保条約を改めて、日米関係をより対等なものとすることを目指した。(日米新時代)

②しかし、アメリカ軍の極東出動時の国内基地の使用や、有事における共同作戦行動が定められたことに対して、日本が東アジアにおける全体戦争に巻き込まれる恐れがあるとして、革新勢力が反対した。

③こうした中で、岸内閣が警官隊を導入して衆議院で条約批准を強行採決すると、民主主義の擁護を掲げ、一般市民も巻き込んだ大運動となった。


Q3 1965年に日韓基本条約が結ばれた日本・韓国・アメリカそれぞれの思惑は?

A3

①日本:経済援助を通じて韓国市場への進出を図りたい。

②韓国:植民地時代の事後処理の問題を解決するとともに、経済援助を受けて産業の育成を図りたい。

③アメリカ:西側陣営の結束を強化するとともに、経済援助の負担を日本に肩代わりさせたい。


Q4 ベトナム戦争は日本の外交にどのような影響を与えたか?

A4

①アメリカが多額の戦費に財政難に陥った。

②そのことから、アジア戦略の転換を迫られ、1971年にニクソン大統領が訪中を電撃的に発表すると、翌1972年に日本の田中角栄首相も北京を訪問し、日中共同声明を発表して国交正常化を果たした。

③また、経済的な負担の肩代わりを日本に求めるようになり、1972年の沖縄施政権返還につながった。


Q5 沖縄施政権返還が実現した背景は?また、沖縄の基地はどのように扱われたか?

A5

①ベトナム戦争が始まると、沖縄の基地が出撃基地として利用されたことから反発が高まり、1968年に行われた初の琉球政府主席公選では、即時無条件全面返還を掲げた革新統一候補の屋良朝苗が当選した。

②こうした中で、ベトナム戦争の戦費にあえぐアメリカは、沖縄施政権返還を進めることで、島内の基地反対闘争の沈静化を図るとともに、返還を望む日本にコストの負担を肩代わりさせようとした。

③沖縄返還協定では、沖縄の基地は安保条約が適用されることになり、基地はそのまま存続された。そのため、国土面積の1%に満たない沖縄に75%近くの基地が集中しているという本土との格差は、解消されていない。

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