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日本史論述ポイント集・中世⑥

今回扱う守護領国制は、私大型の単答問題ではあまり出ないけれども、論述問題では頻出のテーマです。

覚えるべき単語量は少ないが、〈しくみ〉を理解していなければ、中世における武家社会の変化が捉えられない。そのような分野だからでしょう。

その意味で、いつものように〈しくみ〉の理解に努めてください。

ポイントは〈血縁的結合から地縁的結合へ〉です。

前回、前々回と見たように、(嫡子)単独相続の一般化によって惣領制の血縁的結合は弱体化します。

そのようにして身寄りを失った庶子たちはどうしたか?

現地で一番強い者の庇護を受けようとしたのです。それが、室町幕府からさまざまな権限を与えられた守護だったわけです。

こうして、地域的支配権を確立する守護(大名)も現れます。

ただし、その守護の権限とは、あくまでも幕府から与えられたものであって、自らの強さではない。それゆえ、応仁の乱後には下克上に遭うのです。

守護(大名)の支配は幕府から与えられた職権に依存する。この点は、次回扱う戦国大名と比較する際の重要な比較のポイントですので、頭に入れておいてください。

中世⑥・守護の支配

Q1 南北朝期に守護の権限はどのように強化されたか?

A1

①もともと鎌倉時代は、大犯三箇条を中心に軍事・警察権を握るのみであった。

②鎌倉後期になると、大田文の作成など在庁官人の職務を引き継いだ。

③南北朝朝には、幕府から治安維持のため刈田狼藉取締権・使節遵行権などの行政・司法権が与えられた。

④さらに、半済や段銭の徴収権なども手に入れ、これらをもとに国内の武士を支配下においた。


Q2 半済の中身はどのように変化したか?

①もともとは、観応の擾乱に際して、軍費調達のため、近江・美濃・尾張三国の守護に対して、1年限りで年貢の半分を兵糧米を徴収する権利が認められた。

②のちに全国の守護に認められるともに、土地そのものの折半を意味するようになった。(全国化・永続化)


Q3 守護領国制はどのようにして成立したか?

A3

①室町時代の守護は、従来の軍事・警察権に加えて、治安維持のため行政権や司法権が幕府から与えられた。

②また、段銭の徴収権や半済の権利なども獲得し、収益権を握った。

③これらの権限を給分することを通じて、守護は血縁的結合から切り離された国内の武士を被官化し、守護領国制と呼ばれる地縁的な支配体制を構築した。


Q4 応仁の乱後に多くの守護(大名)が没落したのはなぜか?

A4

○守護は幕府から与えられた職権に依存して任国を支配していたので、応仁の乱で幕府の権威が失墜すると、自立した国人や守護代の下克上を受けた。


Q5 応仁の乱はどのような変化をもたらしたか?

①幕府の権威が失墜し、実質的な支配がおよぶのは山城一国のみとなった。

②下克上の世が幕を開け、守護の領国では守護代や国人が実権を握った。

③争乱が全国に広がり、荘園領主である公家や寺院の僧侶が地方に疎開したことから、荘園制の解体が進んだ。

④京都の荒廃により公家や僧侶が疎開したことで、京文化が地方に伝播した。


(付記1)

「守護領国制」という用語は、守護が領国に地域的封建制を形成していたとする考え方に基づいて用いられる語です。しかし、荘園領主の支配が完全に排除されていたわけではないこと、守護に被官化されない国人も存在したことなどから、捉え直しが行なわれています。

 こうした動向を踏まえ、現行の教科書(山川詳説日本史など)では「守護領国制」の語が用いられなくなってきていることを、付記します。ご指摘くださった皆さま、ありがとうございました。

(付記2)

上記のように、守護が封建領主と捉えられないのであれば、「大名」と呼ぶにはふさわしくありません。そのため、現行の教科書でも「この時代の守護を守護大名と呼ぶことがある」などと記されています。

この点を踏まえ、「守護大名」の表記を「守護(大名)」と改めました。




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