見出し画像

渋沢栄一の倫理

 渋沢栄一はかつてセンター倫理で出題されたことがあります。それは、渋沢がたんに実業家であるだけでなく、経済活動と倫理の関係を探究した「思想家」でもあるからです。以下にその問題と解説を掲載したいと思います。

〈問題〉

 渋沢栄一は、経済活動と倫理の関係について、次のように論じている。その趣旨を踏まえて、渋沢が説く望ましい「実業家」として最も適当なものを、下の①~④のうちから一つ選べ。

 「仁をなせば則ち富まず、富めば則ち仁ならず」……というように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのでは、甚だ不都合の次第である。……これ後世の学者のなせる罪で、……孔孟の訓(おし)えが「義利合一」であることは、四書を一読する者の直ちに発見するところでる。……孔孟教の根底を誤り伝えたる結果は、実業家の精神をして、殆(ほと)んど総(すべ)てを利己主義たらしめ、……金儲(もう)けをしたい
の一方にさせてしまった。……我々の職分として、極力仁義道徳によって利用厚生*の道を進めて行くという方針を取り、義利合一の信念を確立するように勉(つと)めなくてはならぬ。
                   (渋沢栄一『論語と算盤』)

*利用厚生:人々の必要品の入手や使用を便利にし、その生活を豊かにすること。

① 実業の世界では道徳と利益は両立しないとする従来の学者の見方を否定し、いかなる利益追求もおのずと仁義道徳と合致してゆくと考え、道徳には特別な配慮をせず、経済活動に邁進(まいしん)する実業家
② 実業の世界では道理を求めれば利益が得られず、利益を求めれば道理にかなわないと、義利合一の信念の実践は困難であることを自覚し、人々の生活の豊かさには特別な配慮をせず、利益追求に経済活動の根本を求める実業家
③ 金を儲けることを目的として経済活動を実践するにしても、仁義道徳との調和が大切であると考え、人々の暮らしを満ち足りたものとすることを目指しつつ、利益を追求しようとする実業家
④ 金を儲けることを目的として経済活動を実践することは倫理的に許されないとして、利益追求への思いは断念し、孔孟の教えの真意を学び、それを信念として道徳的に生活を送ることが、本当の豊かさであると考える実業家
        (2011年度・センター試験追試験・第3問・問7)

・商人に受け継がれてきた「論語と算盤」の精神
 「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれ、幕末には幕府使節としてヨーロッパ各国を訪問してパリ万博などを視察、明治新政府で大蔵省に出仕したのちに、実業家としての道を歩み始めます。そして、第一国立銀行(現みずほ銀行)・大坂紡績会社(現東洋紡)など、多くの企業の創立に関わりました。
 その渋沢が、経済活動を行ううえでも儒教的な道徳が重要であると説いた『論語と算盤』を著わし、利潤のみを追求する姿勢を戒めたことは、よく知られています。問題の史料文から、金銭的な損得勘定で動くことを許さない渋沢の精神が、伝わってくるでしょう。
 渋沢は、「仁」と「富」とが両立しないとするのは「後世の学者のなせる罪」であって、孔子・孟子の「訓え」は「義利合一」にあると言います。孔孟の教えが誤解された結果、「実業家」は「利己主義」に陥り、「金儲け」に走ることになった。だからこそ、「仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針」をとり、「義利合一の信念」の確立に「勉めなくてはならぬ」と言うのです。
 補足しましょう。孔子の説く「仁」とは、他人を思いやる親愛の情のことです。経済活動も、こうした「仁」の枠組みから外れるものではありません。他人が必要としているものを与える、それこそが経済の本質であり、利潤はそれに対する報酬である。注にも「利用厚生:人々の必要品の入手や使用を便利にし、その生活を豊かにすること」とあります。渋沢が主張した「義利合一」とはそういうことです。
 こうした内容を踏まえて選択肢を見ると、「仁義道徳との調和」「人々の暮らしを満ち足りたものとすることを目指しつつ、利益を追求しようとする」とある③が正解と判定できます。①は「道徳には特別な配慮をせず」、②は「義利合一の信念の実践は困難である」「人々の生活の豊かさには特別な配慮をせず」、④は「金を儲けることを目的として経済活動を実践することは倫理的に許されない」が誤りです。
 ところで、江戸時代に上方(大坂・江戸)町人に対して石門心学と呼ばれる商業道徳を説いた石田梅岩という人物がいます。梅岩は正直(せいちょく)と倹約を徳目として掲げました。相手をだましたりせず、正当な手段で利益を上げることが商人にとっての正直であり、また、倹約は物を有効に活かすという態度に根ざしている。こう梅岩は言います。
 そして、このように説く梅岩が強調したのが「先も立ち、われも立つ」という互助の精神です。お客さまがあってこそ、私たちは利益を得られる。渋沢の言う「義利合一」の信念は、日本人の商人の間で脈々と受け継がれてきたものなのです。

・「神の見えざる手」とは、私たちの自身の心である
 ですが、経済と道徳の両立という発想は、日本だけのものではありません。例えば、「近代経済学の祖」とされる18世紀イギリスの思想家アダム・スミスです。
 スミスは『諸国民の富(富国論)』において、各人が利己心に従って自由に経済活動を行えば、「神の見えざる手」に導かれて社会全体の利益につながると説きました。「神の見えざる手」とは、今の言葉でいえば市場メカニズム(需要と供給の原理)です。
逆に、国家が経済活動に介入すれば、メカニズムは働かなくなります。そこで、スミスは自由放任(レッセ・フェール)を主張しました。
 しかし、スミスの関心は経済にとどまりません。スミスは『諸国民の富』とともに、『道徳感情論』を生涯をかけて書き足していっています。私たちの心には、利害を離れて物事を客観的に眺める「公平な観察者」が存在していて、その共感を得られる範囲で利己的な行為は認められる。つまり、「公平な観察者」こそが道徳の番人だと言うのです。
 一方で『諸国民の富』において自由放任を主張し、他方で『道徳感情論』において「公平な観察者」を主張しているということを、どのように捉えれば良いのでしょうか?
 瞠目卓夫氏の労作『アダム・スミス』(中公新書)によると、スミスは、人間の心には「弱さ」と「賢明さ」の両面があり、「弱さ」が経済繁栄をもたらす一方、「賢明さ」が私たちを幸福に導くと考えていた、といいます。
 私たちはモノがほしい・地位や名声がほしいといった利己心に動かされます。スミスの言う「弱さ」とは、こうした外面的なものに惑わされる心のことです。その「弱さ」が「神の見えざる手」に導かれることで、富は増大します。
 しかし、その「弱さ」が野放しになることはありません。私の心のうちでは、「賢明さ」のある「公平な観察者」が、フェア・プレーの精神で市場にのぞむことを命じます。そして、それゆえにこそ「神の見えざる手」=市場メカニズムは正しく機能するのです。
 「近代経済学の祖」スミスは、市場開放や規制緩和しか語れない昨今の新自由主義者とは明らかに違います。そして、「日本資本主義の父」渋沢栄一もです。

※拙著『センター倫理でびっくりするほどよくわかる はじめての哲学・宗教』(大和書房)より

https://www.amazon.co.jp/はじめての哲学・宗教-センター倫理でびっくりするくらいよくわかる-相澤-理/dp/4479392661/ref=sr_1_6?dchild=1&qid=1613980432&s=books&sr=1-6&text=相澤%E3%80%80


いつもありがとうございます。日々の投稿の励みになります。