「死」とは何か。さて死んだのは誰なのか。

 プラトンを〈哲学=考える〉の道に誘ったのがソクラテスの死であったように、私が〈哲学=考える〉営みの真髄を垣間見たのは、池田晶子さんの死によってでした。 

 難解な哲学用語を振り回すことなく、平易な言葉で「私」という存在の不思議さを語ってみせた、文字どおり〈哲学者=考える人〉であった池田さんが、腎臓がんにより46歳の若さで亡くなったのは、2007年のことです。死の直前まで精力的に執筆活動を続けており、その研ぎ澄まされた文章には忍び寄る死の影などまったく感じられませんでしたから、誰もが死に際しても決して動じることのなかった鋭敏な思考に驚嘆しました。
 雑誌での連載の最後となった、その名も「墓碑銘」と題された一節で、池田さんはこう語っています。

「私の墓碑銘として、「さて死んだのは誰なのか」はどうだろう。」

 (『人間自身考えることに終わりなく』新潮社所収)

 こんな言葉を残して旅立たれたら、〈哲学=考える〉の道に分け入らざるをえないではないですか。池田さんは、「無知の知」の逆説をその身で生き抜いた、現代のソクラテスでした。

・〈私の死〉など存在しない

 池田さんは死をどう捉えていたのでしょうか?
(ただし、本当は「池田さんが死をどう捉えていたのか」という問いの立て方は正しくありません。池田さんは、自分が今生きていて、そして死んでいくという、きわめて当たり前で、しかし、これ以上ない不思議なことを、理性(ロゴス)の力に従って考え抜いた人でした。ですから、「池田さんはこう考えていた」と、個人的な死生観のようにとらえるのは間違っています。理性(ロゴス)を十二分に働かせて考えれば、誰にとっても死とはこういうものであるという、きわめて客観的で厳然たる事実を、できるだけ正確に語ったのです。)
 池田さんは、〈私の死〉など存在しない、死とはそもそも、〈私〉によって考えられた言葉にすぎない、と言います。
 「自分が死ぬ」とはどういうことでしょうか? 心臓が動かなくなること? しかし、それは物質としての身体の機能が停止するだけで、死そのものではありません。死体のどこを切り分けても、死そのものを取り出して見ることはできません。死は物質として存在するものではないのです。
 それでは、死はどこにあるのでしょうか? 「〈私〉は今、死について考えている」という、その言葉の構造に注目してください。なるほど、死は〈私〉が考える言葉の中にあるのか。しかし、話はこれでは終わりません。死とは〈私〉がこの世からなくなることです。だとすれば、「〈私〉がいなくなる」と〈私〉が考えるって、一体どういうことですか? 死ねば、その瞬間に死について考える〈私〉もなくなってしまうのですよ。
 池田さんが語り残した、「きわめて当たり前で、しかし、これ以上ない不思議なこと」とはそういうものです。理性(ロゴス)に従って考えれば考えるほど、死は私たちの思考からすべり落ちていきます。物質として存在するのではなく、言葉として、〈私〉が考えることによってのみそこにある死は、考え抜いたその先に、〈私〉がなくなるという、思考ではとらえきれない厳然たるありようを、私たちに突きつけるのです。〈私〉は〈私の死〉をとらえることができない。それは、〈私の死〉は〈私〉にとって、どこにも存在しないことを意味しています。

・すべての人間の死因は、生まれたこと

 次に、物質としての身体という側面から、死について考えてみましょう。〈私〉は、身体がなければ考えることができません。そもそも、思考をつかさどる脳は物質です。それで私たちは、物質としての身体が動かなくなることをもって、(本当は死そのものではないのですが)死と考えています。
 ここで、〈私の身体〉は〈私〉そのものではないし、〈私〉の意志で自由にすることもできない、ということに注意してください。たとえば、少し熱があって身体がだるく、頭もボーっとしている状態を想像してみてください。自分の身体なのに自分の身体ではないと感じられることがあると思います。〈私の身体〉と〈私〉とは、常に重なりあっているものではないのです。
 〈私の身体〉は〈私〉の意志で自由にならない――たとえば、何か胃がもたれているなあと思って、自分の意志で胃を動かすことができますか? 生命を維持するために必要な、呼吸・消化・排せつといった身体の機能は、〈私〉の意志とは無関係に行われています。
 そもそも、〈私の身体〉を〈私〉が選んだわけではありません。たまたまある一つの身体に〈私〉がやどかりのように住みついた結果、〈私の身体〉となった、というのが正しい順序です。
 だとすれば、物質としての身体は、どこから来たのでしょうか? これはもう、〈自然〉としか言いようがありません(ここで言う〈自然〉は、「おのずからそうなる」という意味での〈自然〉です)。自分の意志でも、お母さんの意志でもなく、〈自然〉にこの世に生まれてきた。だとすれば、〈自然〉としての〈私の身体〉は、〈私〉の意志で自由にならなくて当然です。
 これを突きつめれば、物質としての身体の死とは、〈自然〉にほかならないということになります。〈自然〉として生まれた物質としての身体は、同じく〈自然〉として死んでいくのです。
 池田さんは、生き死にをめぐるこうした事情を、次のような一言で端的に表現しています。

「すべての人間の死因は、実は生まれたことであって、これは絶対なのです。」(『暮らしの哲学』毎日新聞社)

〈自然〉として生き、そして死ぬという厳然たる事実。しかし、それを思い知ることから、死を恐れず、今こうして生きているその生き方に対して道が開かれていきます。


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