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『東大のディープな日本史』アーカイブ①・「日本」はいつから始まったか?

 2月26日に、『東大のディープな日本史』の最新刊である〈傑作選〉が刊行されます。そこで、出版元のKADOKAWAさんの厚意により、これまで1〜3に収録した問題の中から、泣く泣く〈傑作選〉から外したものを、記事として紹介していきたいと思います。
 1回目となる今回は、「日本」の国号の成立にも関わる遣隋使・遣唐使に関する問題です。

・〈外交音痴〉ではなかった古代の朝廷

 昨今の領土問題やTPP参加問題をめぐる政府の対応を見ていると、日本人はどうしてこうも〈外交音痴〉なのだろうと思えてきてしまいます。しかし、元外交官である孫崎亨氏や佐藤優氏のすぐれた著作を読めば、主張すべき部分は主張しながらも、相手国の事情に配慮しながら現実的な落としどころを探るという外交の要諦が、そなわっている人にはそなわっているということが分かります。

 そもそも、東アジアの辺境の地に生きる日本人が、本当に〈外交音痴〉だったら生き延びることはできなかったはずです。古代において、東アジア世界の中心は中国でした。そうした中でも、いや、そうした状況を逆手にとるような形で、日本の朝廷は最大限の〈国益〉を引き出してきました。

 次の東大日本史の問題は、遣隋使・遣唐使が果たした役割や意義を通じて、日本人に本来そなわっている〈外交感覚〉を再確認させてくれます。

〈問題〉

 次の⑴~⑷の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

⑴ 607年に小野妹子が遣隋使として「日出づる処の天子」にはじまる国書を提出したが、煬帝は無礼として悦ばなかった。翌年再び隋に向かう妹子に託された国書は「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」に改められた。推古朝に天皇号が考え出されたとする説も有力である。

⑵ 659年に派遣された遣唐使は、唐の政府に「来年に海東の政(軍事行動のこと)がある」と言われ、1年以上帰国が許されなかった。669年に派遣された遣唐使は、唐の記録には高句麗平定を賀するものだったと記されている。

⑶ 30年の空白をおいて派遣された702年の遣唐使は、それまでの「倭」に代えて「日本」という新たな国号を唐に認めてもらうことが使命の一つだったらしい。8世紀には遣唐使は20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

⑷ 717年の遣唐使で唐に渡った吉備真備と玄昉は、それぞれ中国滞在中に儒教や音楽などに関する膨大な書籍や当時最新の仏教経典を収集し、次の733年の遣唐使と共に帰国し、日本にもたらした。

設問 7・8世紀の遣唐使・遣隋使は、東アジア情勢の変化に対応してその性格も変わった。その果たした役割や意義を、時代区分しながら、6行(180字)以内で説明しなさい。                  (09年度・第1問)

・約1世紀ぶりの国交再開だった遣唐使


 資料文⑴はもちろん厩戸王(聖徳太子)の派遣した遣隋使についての記述ですが、この中国への遣使は、実は、5世紀に倭の五王(讃・珍・済・興・武)が南宋に朝貢して以来の、1世紀以上のブランクをへてのものでした。

 九州北部から関東地方にかけて、国内の支配を固めつつあった5世紀のヤマト政権は、鉄資源や大陸の進んだ技術を求めて朝鮮半島に進出していました。こうした中で、倭の五王は南宋に繰り返し朝貢し、478年には倭王武(雄略天皇に比定)が遣使して安東大将軍倭王の称号を賜ります。中国を中心とする東アジアの国際秩序(冊封体制)に組み込まれることで、朝鮮半島南部での軍事的地位(安東大将軍)と日本国内の支配者としての地位(倭王)を認めてもらおうとしたのです。

 しかし、478年を最後に遣使はぷっつりと途絶えます。中国では4世紀以来、南北朝時代が続いていましたが、両朝とも王朝の興亡が激しさを増していたこと、日本国内でも筑紫国造磐井の乱など地方豪族の反乱が相次いでいたこと、安東大将軍という称号がライバルの高句麗王が賜った征東大将軍・車騎大将軍よりも格下であったこと、などの理由が考えられます。

 一方で、6世紀には朝鮮半島の百済が新羅による圧迫を受ける中で軍事的な目的から倭(ヤマト政権)に朝貢していましたので、大陸へのチャンネルは確保していました。仏教や儒教もこの時期に百済から伝えられます。

 さて、いよいよ隋の登場です。581年に北朝に成立した隋は、589年、南朝の陳を滅ぼして南北朝の統一を実現します。中国全土が統一されるのは、220年に後漢が滅ぼされて三国時代(魏・呉・蜀)に突入して以来、3世紀半ぶりのことでした。そして、高句麗に数回にわたって出兵するなど、隋が国域の拡大を図る姿勢を示したため、東アジアは一気に緊迫の度が高まりました。

 こうした中で、ヤマト政権の中枢にあった厩戸王(聖徳太子)は、中国との国交再開の道を選択します。しかも、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(『隋書』倭国伝)とする国書のとおり、隋皇帝との対等な立場を求めたのです。

・冊封体制からの離脱を表明

 厩戸王(聖徳太子)がこうした中国皇帝に臣属しない形式をとった理由としては、国内的に畿内有力豪族に対して冊封を受けない大王の地位の自立性を示そうとしたということも考えられます。しかし、設問は「東アジア情勢の変化に対応」した役割や意義を問うているのですから、対外的な背景の方を踏み込んで考えたいところです。

 6世紀の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の三国が拮抗しあう状況が生じ、こうした中で倭(ヤマト政権)は朝鮮半島南部に保持していた拠点(伽耶諸国)を失いました。しかし一方で、三国とも倭を味方につけようと調(貢進物)を送ってきましたので、倭は前述の百済だけでなく三国すべてから朝貢を受ける立場になっていました。後に8世紀の朝廷が形成する、日本版華夷秩序(傑作選で解説しています)の原型が、この時すでに出来上がっていたのです。

 こうした状況で、中国皇帝から冊封を受けて高句麗などよりも格下の称号をもらう必要はないでしょう。また、厩戸王(聖徳太子)は仏教の師である高句麗僧・恵慈などを通じて、隋と高句麗が交戦状態にあったことも当然知っていたと考えられます(そもそも恵慈は隋との関係が悪化する中で倭に打開の活路を求めて送られてきました)。

 今ならば、対等な立場を主張しても隋は認めるしかない――厩戸王(聖徳太子)にはそういう読みが働いたはずです。実際、隋皇帝の煬帝は国書を受け取って「蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿れ」と激怒しましたが、高句麗と交戦状態にあることも考慮して、翌年(608)年には答礼使・裴世清を来日させました。

 資料文⑴にあるように、この時「天皇」号を名乗ったかどうかは疑問です(後述)。しかし、倭(ヤマト政権)は緊迫する朝鮮半島情勢を利用して、冊封体制から自立した立場を隋に認めさせることに、まんまと成功したのです。

・ひたすら頭を下げて帰ってきた遣唐使

 資料文⑵に進みましょう。中国では618年に隋に代わって唐が成立し、2代皇帝・太宗の治世下に律令体制を固める(貞観の治)と、ふたたび周辺諸国への出兵を開始しました。特に朝鮮半島では648年に新羅と軍事同盟を結んでいます。

 資料文には「来年に海東の政(軍事行動のこと)」という唐の政府の言葉が引かれていますが、実際に翌660年、唐・新羅の連合軍によって百済が滅ぼされました。朝鮮半島における拠点を確保したい倭(日本)の朝廷は旧交のある百済を支援し、663年に白村江の戦いで大敗北を喫したことは、ご存じの通りです。

  白村江後に対外的な危機がもっとも高まっていたことは間違いありません。いつ唐・新羅が攻め込んでくるか分からないという状況で、天智天皇(中大兄皇子)がすべきことは、第一に防衛の強化、第二に唐との関係改善でした。前者に関しては、百済からの亡命者の力も借りて水城・山城などを築いています。一方、後者に関して行ったのが、資料文⑵後半で述べられている遣使です。要するに、高句麗の平定おめでとうございますと頭を下げて、そそくさと帰ってきたのです。

 その後、朝廷は遣唐使を中断し、国家建設に専念します。672年には、天智天皇の子の大友皇子と弟の大海人皇子の間で皇位継承をめぐって壬申の乱が発生し、大海人皇子が東国の豪族を結集して勝利しました。大友皇子側についた畿内有力豪族の勢力が一掃されたことから、天武天皇として即位すると強大な権力を握り、その下で大化の改新以来の目標であった中央集権国家の建設が急ピッチで進むことになります。

 「天皇」「日本」号はこの天武朝において定められたとする説が有力です。自ら軍をひきいて皇位を勝ち取った天武はまさに〈カリスマ〉でした。柿本人麻呂ら宮廷歌人は、「大君は神にしませば……」と天武を神格化する歌を詠みました。「天皇」「日本」号は、強大な権力を握った〈カリスマ〉天武にこそふさわしいものでしょう。

 なお、7世紀後半の遣唐使の中断中も、唐との軍事同盟が決裂した新羅から朝貢形式で使節が来日しています。ですから、国交が完全に閉ざされたわけではありません。常時チャンネルを確保しておくことは、現代においても外交の基本です。

・文化使節としての役割

 資料文⑵で述べられているのは、前著問題2で紹介した(傑作選に収録しています)大宝の遣唐使(702)です。藤原京遷都(694)大宝律令制定(701)と唐にならった中央集権的な国家体制を整え、唐に対して「私たちの国は〈日本〉と言います。同じ律令国家どうし対等にお付きあいしましょう」と高らかに宣言したのでした。

 その後、8世紀の朝廷は、日本版華夷秩序と冊封体制からの自立という「タテマエ」は維持しながらも、「20年に1度朝貢する約束」を守って、対外関係の安定化に努めました。そうした中で、遣唐使で渡った留学生や留学僧は文化使節の役割を果たします。資料文⑷に「当時最新の仏教経典を収集し」とありますが、奈良時代には遣唐使が持ち帰った経典をもとに教義研究が発達しました。そして、吉備真備はその外交経験と知識を重んじられて、歴代政権で登用され右大臣にまで上りつめたという話は、97年度に出題されていますので、よろしければあたってみて下さい。

〈解答例〉

隋による中国統一を受け、7世紀初めには皇帝に臣従しない形式で中国との国交を回復し、先進的な制度・文物の摂取を図った。白村江で敗北し、朝鮮半島の緊張が増す中で7世紀後半にはその緩和に努め、国家建設に専念すべく遣唐使を一時中断した。新羅の統一により情勢が安定すると8世紀初めには遣唐使を再開して律令制の完成を表明し、以降は定期的な朝貢を通じて文化交流に貢献した。

・後記

 古代の外交史は東大日本史の定番でもあるので、〈傑作選〉で別の問題を収録しています。また、国号としての「日本」は7世紀後半に始まりますが、現在につながる国家としては5世紀後半の雄略天皇(ワカタケル大王)の時代に遡りますので、〈傑作選〉ではそちらの問題を扱っています。

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