日本史論述ポイント集・近世⑥
今回は、18世紀後半〜19世紀前半の幕政の動向についてです。
この時期には、田沼政治・寛政の改革・天保の改革と幕政改革が繰り返されていますが、それは何より幕府の支配が揺らぎつつあったからに他なりません。
水戸藩主の徳川斉昭は、12代将軍徳川家慶に提出した意見書『戊戌封事』において、「内憂」と「外患」の二つに語を用いて幕府の危機を訴えました。
まず、「内憂(国内問題)」については、農民層の階層分化や相次ぐ飢饉(天明・天保)により、幕藩を財政的に支える農村の荒廃が進みました。
一方、「外患(対外問題)」としては、18世紀後半以来の列強の接近により、「四つの口」を窓口として形成した外交秩序に変更を迫られました。
ちなみに、『戊戌封事』の「戊戌」は1837年の干支ですが、この年には内憂外患を象徴する出来事が起こりました。大塩の乱とモリソン号事件です。そして、このような危機に対処すべく、将軍家慶のもとで水野忠邦が老中に就き、天保の改革を行います。
それぞれの改革が内憂外患の事態をどのように乗り越えようとしたのか、個々の政策がどのような目的があったのかを捉えてください。
近世⑥・幕藩体制の動揺
Q1 田沼政治の狙いと結果は?
A1
①年貢増徴だけに頼らず、民間の商業資本の力を借りて経済を活性化し、そこから税収の増加を図ろうとした。
②経済の活性化は学問や文化の発達を促したが、一方で、取り残された農村は疲弊し、天明の飢饉が発生すると各地で一揆が頻発した。
③また、賄賂や縁故による人事は士風の退廃と批判された。
Q2 田沼が南鐐二朱銀を発行した狙いは?
A2
①二朱という金貨の単位を与えた計数銀貨を発行することで、金を中心とする貨幣制度の一本化を図る。
②それは、大坂を中心とする銀遣い経済圏を、江戸を中心とする金遣い経済圏に組み込もうとするものでもあった。
Q3 寛政の改革の狙いと結果は?
A3
①天明の飢饉で農村が荒廃する中で、商業を重視した田沼政治を改め、幕藩の財政基盤である農村の復興に力を入れた。
②また、江戸をはじめ多くの都市で激しい打ちこわしが行われたことを受けて、江戸の治安対策と貧民救済に着手した。
③改革は幕政の引き締めに寄与したものの、倹約令・出版統制令などの厳しい統制は民衆の反発を招き、尊号一件をめぐる11代将軍徳川家斉との対立から6年あまりで退陣した。
Q4 幕府は関東取締出役を設置した理由は?
①関東の農村では江戸からあぶれた無宿人や博徒が増加し、治安が悪化していた。しかし、関東は幕領・私領が入り組んでいたために、取り締まりが難しかった。
②そこで、関八州を巡回する関東取締出役を置いて、領主の区別なく広域的に犯罪者の逮捕ができるようにした。
Q5 大塩平八郎が蜂起した理由と、大塩の乱が与えた影響は?
①天保の飢饉の影響で、大坂でも米不足から餓死者が現れる事態であったが、大坂町奉行は商人の買い占めなどに無策なうえ、江戸への米の回送を続けていたため、大塩は洗心洞の門弟を率いて蜂起した。
②乱は半日で鎮圧されたものの、全国流通の中心である直轄都市・大坂で、幕府の元役人(与力)が武力で反抗したことは、幕府・諸藩に衝撃を与えた。
Q6 天保の改革の狙いと結果は?
A6
①国内では郡内騒動・加茂一揆と幕領で一揆が発生し、大塩の乱後もこれに共鳴して各地で一揆がおこった。
②対外的にも、モリソン号事件における幕府の対応に批判が集まり、また、アヘン戦争の情勢も幕府に伝えられた。
③こうした内憂外患の状況に、水野忠邦は幕府権力の強化を目指した。
④しかし、大名・商人・民衆などあらゆる方面から批判を受け、上知令の撤回はかえって幕府権威の失墜を示すことになった。
Q7 水野忠邦が株仲間の解散を命じた理由は?また、株仲間の解散はどのような結果に終わったか?
A7
①三都の株仲間から特権を奪い、江戸近郊の在郷商人らに自由な取引を認めることで、江戸への商品流通量を増加させ、物価の抑制を図ろうとした。
②しかし、インフレの実際の原因は、生産地から上方市場への供給量の不足にあったため、株仲間の解散はかえって江戸への輸送量を乏しくした。
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