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日本史論述ポイント集・中世⑤

今回は、14世紀半ばから後半にかけての政治動向について、具体的には、建武の新政、南北朝の動乱、室町幕府の3つを中心に解説します。

この時代の動きを捉えるには、前回の中世④で見た、〈血縁的結合の弱体化〉という武家社会の変化を押さえることが肝心です。

鎌倉時代の武家社会は惣領制という血縁的結合が単位となっていました。しかし、分割相続のくり返しによる所領の細分化で困窮すると、鎌倉後期には(嫡子)単独相続へと移行し、血縁的な結びつきが弱まりました。要するに、相続をめぐって惣領(嫡子)と庶子の間で対立が生じたのです。

血縁的な身寄りを失った武士たちは、新たな庇護者を求めます。それが、南北朝の動乱の全国化・長期化の要因となりました。

どういうことか?

惣領と庶子で争いを繰り広げている中で、惣領が南朝方についたら、庶子は北朝方につくというように、両朝に分かれたのです。

こうして、もともとは公家社会というコップの中の嵐にすぎなかった南北朝の動乱は、武家社会の変化と結びつくことで、全国化・長期化したのです。

武士たちはやがて守護のもとに地縁的に結合していきますが、それは次回扱いましょう。


中世⑤・建武の新政と南北朝時代

Q1 後醍醐天皇はどのような政治目標をもっていたか?

A1

①延喜・天暦の治を目標として、幕府も摂関政治も院政も否定し、天皇親政を行う。

②自らが発給する綸旨を絶対として、旧来の慣習を打ち破る。

③こうして、公家・武家をはじめあらゆる勢力を自らの下に結集させ、天下統の世の実現を目指す。


Q2 建武政権が短期間で瓦解したのはなぜか?

A2

①公家は旧来の政治体制(摂関政治・院政)への回帰を望んでいたが、先例を無視して武家が登用されたり、所領の回復もままならないなど、不満を残した。

②武家も、新たな棟梁の出現を望んでいたが、綸旨による所領の個別安堵法は道理を踏みにじるものであり、反発した。

③農民も、大内裏造営計画などに伴う負担の増大に不満をもった。

④このように、後醍醐天皇はあらゆる勢力の結集を目指したが、それぞれの利害が対立し、空中分解した。


Q3 南北朝の動乱が長期化・全国化したのはなぜか?

A3 

①武家社会では、分割相続から単独相続への移行によって惣領と庶子の対立が激化し、それぞれが南北両朝の勢力と結びつくことで全国化した。

②優位に立っていた北朝内部では、幕府が尊氏派と直義派に別れて対立するなど、調停者の役割を果たせなかった。

③南朝方の吉野は天然の要塞であり、北畠親房『神皇正統記』に見られるように正統性を固く信じていたことも、長期化の要因となった。


Q4 室町幕府と朝廷はどのような関係にあったか?

A4

①幕府はしだいに京都市政権や段銭徴収権を獲得し、朝廷の権限を幕府の管轄下においた。

②足利義満は太政大臣となり、経済的にも援助するなど、朝廷に対しても実権をふるった。


Q5 室町幕府の経済基盤・政治基盤はどのようであったか?

A5

①御料所が全国に散在するなど経済基盤が弱かったため、土倉役・酒屋役や関銭・津料など、発達する流通に税収を求めた。

②将軍は奉公衆と呼ばれる軍事力を保持するものの、幕府の中枢は三管領・四職など有力守護が占めていて、絶対的な権力を握っていたとは言えなかった。

③鎌倉府は京都の幕府と同じ組織を持ち、東国における大きな権限を与えられていたため、対立の火種となった。


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