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チー牛に添えられるのはいつだってタバスコだ

 味の好みなんてものは、自らの記憶や何気のない体験によって、いとも簡単に変えられてしまうほどに脆い幻想のようなものであるのだ。もちろん、年齢を経るにつれて味覚も変化してゆく。僕は酒が好きになってから、それまで好きではなかった茄子が好物になったし、そんな僕を茄子の方も好きになってくれていると思う。

 僕はすき家が大好きだ。少なくとも1ヶ月に1回はすき家に行きたくなる。小さい頃から決まって注文するのはチーズ牛丼、いわゆる「チー牛」だ。これに生卵とお味噌汁のセットをつけ、とろけたりとろけていなかったりするチーズに溶き卵をかけていく。ある時、ネット民のヤツらがチーズ牛丼のことを「チー牛」と呼び出し、それはオタッキーな人間は「チー牛」が好きだと揶揄されるようになり、「チー牛顔」なんて言葉も生まれてしまった。確かに「チー牛」の揶揄は的を射ており、「チー牛顔」がどんな顔なのかもなんとなく思い浮かぶ。

 しかし、古くからのチー牛ファンを代表していうならば、「チー牛」に憤りを感じている。すき家に入って、純粋な気持ちでチー牛を注文することができなくなったのだ。どこかでうしろめたさのようなモノを感じる。もちろん、自分のお金で牛丼を食べる以上、誰に文句を言われる筋合いもなく、堂々とチー牛にありつけばいいのだけれど、それがわかっていても、チー牛を頼むときはなるべく小声で注文をしてしまう。なので、最近新しくできたすき家のタッチパネル式の注文は、チー牛ファンにとっての救世主なのだ。注文時においては誰の視線も気にすることなく、堂々とチー牛ボタンを押すことができる。

 そして、チー牛ファンの僕らなら言わずともお分かりだろうが、チー牛にはタバスコがついてくる。僕は刺激的な味が苦手だ。過度に辛い・苦い・酸っぱいものは敬遠してしまう。特にタバスコはその最たるもので、少年期、ピザに何気なくかけたタバスコに悶絶した記憶がある。それいこう、チー牛が運ばれてきても、タバスコにはメモくれずひたすらチー牛をかき込んでいた。

 しかし、その日は何かが違った。最近見ているドラマ(おいハンサム)の影響なのか、友人と味覚について話した影響なのか、なぜかタバスコが目にとまり、器の隅っこの方に1滴だけ垂らしてみた。ひと口食べ、全体に5滴ほど垂らし、合わせて6段ほど大人の階段を登った。

 この経験から僕が何を学んだのかというと、タバスコはそれほど辛くはないということだ。少年期のたったひとつの記憶だけでタバスコは僕にとっての天敵だと思い込んでいたが、僕の食事を豊かにしてくれる味方だったのだ。このように、味に対する信念なんてものはただの幻想にすぎず、これっぽちの興味によっていとも簡単に崩されてしまう。さらに言うと、タバスコの味を知った僕はただのチー牛ファンではなく、タバスコの味を知った僕はきび団子を持った桃太郎のようなものだ。これからはきっと、今まで以上に楽しいチー牛ライフが待ち受けているはずだし、チー牛を揶揄する人間がいるとすれば、両目にタバスコを2滴ほど垂らしてやりたいと思う。

(見出し画像はすき家のホームページより。)

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