踏み台になりたい。
踏み台になりたい。
いや、踏み台というより跳び箱のロイター板に近いのかもしれない。
「踏み台」って、なんか悪い文脈で使われることが多いと思うが、、
そして、別に俺は誰これ構わず、みんなの踏み台になりたいと思うほどお人好しではないしドMでもない。
この言葉には前提条件がある。
「これからの未来に希望を持ち、前を向いて、上を向いて、走りたいと思った時、俺を踏み台にして空高く飛び立って欲しい」
俺は、教育者として「踏み台」というスタンスになりたいんだ。
教育者にもいろんな形がある。
それは学校の先生だけではない。
だが、今回は教育者=学校の先生という仮定で話を進めたい。
学校の先生になりたいと、小学生の頃から思っていた。
けれど、それは誰かに勉強や知識を教えたいからじゃなかった。
いろんな動機があっていいと思う。
「わからない友達に勉強を教えて、相手が理解してくれた。ありがとうと言ってくれた。それが嬉しくて、それがきっかけで先生になりたいと思った」
先生になりたいと思う人の中で、こんな動機を語る人を沢山みてきた。すごく素敵だと思う。
けど俺は、小中高の時に、誰かに勉強を教えた記憶はほとんどない。もちろん、勉強や知識を教えること自体に喜びを感じた経験もあまりない。
勉強や知識そのものを伝達するという営みよりも、自分の言葉や考え方がきっかけで、勉強したくなったり、考えが広がったり、何か選択肢を見つけたり、元気になったり、スッキリしたり、そういう方が喜びを感じる。
だから、俺にとっては、「教える」ということは、単なる手段でしかないように感じる。というより、そもそも「教える」という感覚はない。
どうしても、「教える」というのは上からな目線を感じてしまう。俺なんて、全然大したことないし、まだまだ知らない知識は沢山あるし、知らない社会だって沢山ある。
俺が「教える」ことなんか何もない。
ってほんとに思ってる。ただ、言えるのは、そんな俺でも、今までの人生の中で見てきた景色や、聞いてきた話、学んできた知識、得た経験や選択肢はあるということ。
言葉の違いにはなるんだけど、感覚的には「教える」というより「共有する」という感覚に近いのかな。
「〇〇した方がいいよ」っていうよりは「〇〇したら、こうなったんだよねー」っていう感じ。
こちら側の経験を基に、それに相手を合わせるというか型にはめるというよりは、俺はこんな経験をしたし、こんな選択肢も見えてきたんだよねー、それを基に君はどうしたい?っていうスタンス。
俺の経験から、こういう考えや選択肢は共有できるけど、それが正解ではない。1つの材料、きっかけにしながら、一緒に考えていこうか。
誰かの未来が、より良い方向に動いたり、広がったりするための「きっかけ」となる。
これは、俺の持論なんだけど、
教育という営みは「教育者を超えていくこと」である。
自分の言葉が、考え方がきっかけとなって、関わる相手が小さくても大きくても飛躍する。
なんか「教える」という感覚のままでは、その教育者以上の人材は生まれない気がしていて。「教える」人が正解を持ってるみたいな教育者には、あまりなりたくなくて。
教育者だって、誤った判断をすることがあるし、間違うことだってある。それを素直に見せれるか。
自分の知見を共有する + 一緒に考える、伴走する。
自分の知見は共有する。けど、自分が知らない選択肢や知識や経験を相手が持ってるかもしれない。そういう時は、一緒に考えたい。相手にとって、何がベストなのか。わからないなりに、同じ目線で、フラットな関係性で、考えて、考えて、最後は背中を押してあげたい。
ほら、飛んでいけ!って。
ただ、自分の知見の共有の仕方には気をつけならければいけない。
こんな経験したんだぜ!
こんな知識持ってるんだぜ!
こんなこと知ってるんだぜ!
という、主張が強すぎる言い方は単なる自慢話やマウントになってしまう。
そうじゃない。
俺は、「踏み台」になりたい。
俺を踏み台にして空高く飛んでいけ!
教育者を超えて行け!
教えることによって、俺のクローンを作りたいわけじゃない。
そんなスタンスで、これから教育に関わっていきたいと思うのです。
ただ、踏み台自身もいいものじゃなければ、飛ぶ人も高く飛べない。しっかりとしたバネがないと、高くは飛べない。
だから、自分自身を高めていくことも大事だと思います。まだまだ、俺自身も成長できる!
今日も読んでいただきありがとうございます!
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