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【読了】『ひろしま』石内都(集英社)

(2024年10月3日読了分)

 本をたびたび額に押し付けながら、どうにもならないほどに涙が出た。
 “資料となってしまった日”という表現に、現実の重みと存在の喪失を感じてしまうことがひどくつらい。

 この本は、この「在りつづけるモノ達へ」(と、栞)を除いて写真のみで出来ている本である。言葉の通り、〈写真集〉である。ただ、あの日の朝熱線に焼かれ或いは放射能に侵され持ち主を失った、“資料になった”モノ達の写真集である。
 まるで本から、タンスの中の衣服のかおりがするようだった。実際は、焼け、滲みているのだけれども。
 言葉の通り、これらを身に着けていた在りし日の人々を想像する。写真もない、わからない人の姿を想像して思い馳せる。

 確かに生きていたのだ。
 確かにそこにいたのだ。

 持ち主のいなくなったモノ達は今も、持ち主がいたことを伝えるために存在をつづけている。
 着ていた人がいる、身に着けていた人がいる、この〈衣〉の中で死んでいった人がいること。
 あの資料館には、数万点もの〈資料〉がある。本来は資料になどならなくてよかった、資料がある。
 暮らしがあった。生活があった。友達がいた。仕事があった。
 あの朝ぽっかりと焼かれた空白に、人の生きていたことを教えてくれる。そういうところを感じるのを、とても大切にしていたい。
 ひとつ、まばたきをして。
 ひとつ、目を伏せているそのあいだに過ぎ去る時間と距離へと、目を向けていたい。

 また、印象的なことばを引用させていただく。

(前略)小さなモノ達は自然の光のもとに連れ出して、忘れてしまった本来の姿に近づける。資料となってしまった日から今日までの時間は、私の生きて来たのとほぼ同じ長さであることを実感する。
(中略)
 人は一世紀生きることはむずかしいが、モノ達はもっと長い存在が与えられている。私達よりもその先々の世まで。決して過去になれない世界最大級の傷跡の品物として。
 この遺されたモノ達に万感の想いをこめて、何ひとつとして記録のない(資料集めの最初期の作品)誰のものかわからない2着のワンピースへ、美しき乙女の姿態を重ねながら、この写真集を上梓する。

(『ひろしま』石内 都「在りつづけるモノ達へ」より)

 読者は、ただ目の前にある無言の写真に何を思うだろうか。
 よろしければぜひご一読ください。

『ひろしま』石内 都/集英社
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-780482-9

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