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木内マジックを受け継ぐ者

 ’90年代のベイスターズの中継ぎ陣を支えたひとりが、島田直也だ。'94年9勝、'95年10勝とリリーバーながらも、2年連続でチーム最多勝を挙げた。盛田や島田、ヒゲ魔神の五十嵐など、中継ぎというよりも「投手リレーの中軸」と呼ぶにふさわしいリリーフの陣容や活躍が、当時試合を支えていた。
  “ホールド”という公式記録がなかったことや、テレビのライブ放送が少なかったことから、彼らが派手に脚光を浴びることは多くはなかったものの、'90年代の彼らの貢献が'98年のベイスターズの日本一につながっていった。
 もちろん、島田直也は'97年に前年から新設された最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、続く'98年のシーズンは54試合に登板するなど、直接日本一に貢献している。

 彼は甲子園のアイドルだったし、プロ入団直後は同期の帝京卒の芝草宇宙と「SSコンビ」としてファイターズでも大いに注目された。トレードでベイスターズに移籍後もイケメンピッチャーとして、ベイスターズの選手としては、ファン層の厚い投手だった。
 世代の近い男性目線でのやっかみもあったかもしれないが、上背もそれほどでもなく、佐々木のフォークや盛田のシュートのような決定的なボールがなかったから、一軍で投げ始めた当初はどことなく頼りなく思っていた。ところが、場数を踏めば踏むほど、しっかり「中軸」として役割を果たしていく。色白のイケメンが表情をクシャクシャにして奮闘する姿は女性ならずとも、心を打たれるものがあった。


 プロ入り前の'87年の夏の甲子園では、木内幸男監督のもと、初出場となった常総学院のエースとして準優勝を飾った。
 8/16の第3試合で、盛田の函館有斗高を下した沖縄水産高に完封で勝つと、翌日の第1試合では、伊良部秀輝らを擁する尽誠学園も完封する。島田は24時間で2回の完封という偉業を達成した。その夏、ジャイキリ木内マジックのタネ明かしは島田の快投にあった。

 決勝では、中村順司監督のPL学園との対戦。有名な逸話になるが、中村監督はその3年前の'84年の夏に桑田・清原を擁して、決勝では木内監督率いる県立取手二高に苦杯を喫し、甲子園20連勝で止められた。中村監督としても負けられない試合だった。のちに島田と同僚となる野村弘をはじめ、立浪和義、片岡篤史、宮本慎也と錚々たるメンバーを擁するPLは、序盤から優勢に試合を進め、5-2で勝利。PLは春夏連覇を達成し、常総学院の木内監督と島田直也、そして1年生の仁志敏久(前ベイスターズ二軍監督)たちはあと一歩、真紅の優勝旗には届かなかった。

 それまでは打順5番だったが、決勝で4番を任された島田は、最終回の無死一二塁の好機に三振し、天を仰ぐ。4番に島田を据えた木内マジックは「その日は不発でしたね」と、彼はのちに苦笑しながら恩師の采配を振り返っている。

 亡き木内監督のDNAを直で受け継ぐ島田直也が率いる常総学院は、明日(2024年3月23日)、甲子園に登場する。対戦相手は震災を受けた石川県の日本航空高、注目の一戦だ。日焼けで、もはや色白とはいえないが、テレビで彼を見て、当時を思い出すベイファンや高校野球ファンも多いだろう。

島田監督には目標がある。木内さんが甲子園で挙げた通算40勝を超えることだ。「木内監督が取手二(茨城)を率いて84年夏に全国制覇したのは53歳のとき。今から十分手が届くでしょう」と意気込む。戦術が進化した現代に、当時の「木内マジック」をまるまる引き継ぐつもりはない。それでも「常総らしい嫌らしい野球は継続していきたい」。

(2021.3.18 毎日新聞)

 木内イズムを引き継ぐためにアマの指導者へと転進したベイスターズOBの元アイドル系リリーバー、監督としての活躍はまだまだ、始まったばかりだ。

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