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擬人化するコトバたち

携帯電話を片手に通話している、街を歩くスーツ姿のサラリーマン。
ペコペコおじぎしながらこそこそと話す人もいれば、気取った持ち方で大声で話す人もいる。

いつだかホリエモンが電話をかけてくるやつは嫌いだというツイートをしていた。
わたしも電話で話すのは嫌いだ。わたしのような若者は多いように感じる。

平成っ子にとって、電話することはスタンダードじゃないのだ。
あなたたちが思いついた用件を電話でバーっと口頭で伝えている間に、わたしたちは要件を脳みそで整理しメールに書き出してケイタイで送信しているのだから。
なんならスマホ世代の若者たちは考えると同じくらいのスピードで言葉を画面に書き出してSNSでやりとりしている。

昭和の最後に生まれた私ですら、中学の頃からケイタイを持っていた。
先生に怒られながらも、机の下でこそこそメールを打って、好きな女の子とインターネットの中で2人だけの世界を楽しんでいた。

家に帰れば、Windows MEというドジっ娘OSが搭載されたデスクトップPCがあって、ダイアルアップのインターネットに接続して時間制限と戦いながら、モーニング娘。のファンが集う掲示板を見ていたものだ。

そのくらい日常的にインターネットがあったし、自分が発する言葉よりもケイタイに打つ文章の方が本当の気持ちなんだ、くらいの感覚が子どもの頃から染み付いてきたのである。

2010年代くらいはやたらとしょうもないキュレーションサイトが乱立していて、中身の薄い文章がインターネットの世界に溢れていた。
それも段々と状況が変わってきて、大手だけが残ってプロのライターが書く文章を目にする機会が増えてきたのではないかなと感じる。

一般層の文章力もメキメキあがってきていて、感覚で楽しむコンテンツは動画や配信などに役割が移っていったのだろう。
SNSに垂れ流す言葉も場所によって口調を変えたり、様々なキャラクターを自分の中に作り出し演じている。

わたしたち人間は、かつて自分が考えている情報を共有する手段として言葉を生み出した。
言葉がない頃、人間はなにを考えていたのだろうか。

動画や音楽といったものは、言葉よりも感覚を伝える手段としてテクノロジーが進化したものだと、個人的には思っている。
一方で言葉は、個人の考えや論理を共有する手段として進化し続けていて、それが文章になり、本になり、メディアになり、SNSになり、いろんな形で発信されているのだと思う。

共有するだけでなく、討論したり、喧嘩したり、歌ったり、言語を新しく作ったりして、わたしたちは言葉を楽しんでいる。

つまり言葉とは、自分の外側に考えていることを擬人化するための手段なのではないかと私は考える。
その伝える手段が進化して、電話が生まれ、ケイタイができて、スマホに進化して、AIの時代が訪れようとしている。

しかし、手段がどれだけ進化しようとも本質的な目的は、祖先が言葉を生み出したときと変わっていないはずである。

自分の中にあるものを外側に擬人化して、他者と喜びを分かち合う。
そんな他者とつながりたい気持ちが根底にあるからこそ、わたしたちは言葉を考えるのではないだろうか。