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泣いて馬謖のフラグと伏線回収 for Biz

三国志のお話で失礼します😌

noteで「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」お話をさせていただきました。示唆に富む面白いお話だと思うのでBizのために引き続き掘っていけたらと思います。

諸葛孔明が泣いた背景

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馬謖は国家存亡を掛けた戦いで軍律違反を犯して、敬愛する師、諸葛孔明によって処刑されました。

この敗戦は非常に重要な意味がありました。諸葛孔明は馬謖を断罪しなければならない理由があったのです。

北伐緒戦の快進撃は、長年戦から離れていた魏軍の油断を突く神撃戦でありました。さらに魏の稀代の英雄-「司馬仲達」の失脚という魏の一時的弱体化と、国内の三権を掌握し、40代なかばでキャリアのピークにある諸葛孔明の神算鬼謀あればこそだったのです😩

つまり、この天地人の揃う千載一遇のタイミングだからこそ、馬謖の失敗は非常に大きかったと思われます。

諸葛孔明はその後6年間にわたって4回の北伐を敢行しますが、魏軍の堅守と蜀の内紛により悉く失敗に終わっています。そして5回目の北伐中に諸葛孔明は陣没してしまいます。ですから、上手くいきそうだったのは最初の北伐のときだけだったと言われています。

この北伐は創業者の劉備や、志を同じくした蜀建国の諸将たちと、そのバトンを引き継いだ諸葛孔明の悲願であり、一大国家プロジェクトでした😥

天才諸葛孔明のことですから、自国の余力や自分のキャリアの限界を考えると、馬謖の失敗がいかに重大な意味をもつかを分かっていたのかもしれません。

「努力は一生、本番は一回、チャンスは一瞬」 ~新庄剛志

まさにそのとおりですね。

ひとりごと

さて、諸葛孔明による馬謖処刑の裁定は妥当だったのでしょうか?

馬謖の処刑について、同僚からも助命嘆願や同情が寄せられました。のちの諸葛孔明の後継者である蔣琬(しょうえん)という官僚からも、その才能を惜しまれたという描写があります。

蜀は建国の歴史も浅く、慢性的な人材難でした。文化はその都市の教育水準の象徴です。比較的文化都市の多かった荊州を呉に奪われてから蜀の人材の獲得はさらに困難になってきます。(諸葛孔明も荊州出身ですし、かつてしのぎを削った仲間も多かったことでしょう。)

信賞必罰」「法令遵守」を徹底するあまり、自ら教育を施した、次世代を担うそこそこ有能な人材を復権の機会も与えずに失ってしまうというのはいかがなものかと、悩んだことでしょう。

前述の通り、馬謖の国家に及ぼした損害の大きさから考えれば懲戒免職相当ですが、法を遵守するあまり貴重な人材を失ったとも言えます。

しかし、諸葛孔明の頭の中には法令遵守以外に、とある思いが過りました。

それは先王劉備の遺言です。

先王劉備が最期を迎えるときに、宰相諸葛孔明に遺言を託します。

息子に国を治める能力があれば、良く補佐してほしい。その能力なくば、君が代わりに皇帝になってこの国を治めてほしい。

遺志を伝えられた諸葛孔明は感銘を受け、劉備の悲願である「魏の打倒」に生涯を捧げます。

そしてもうひとつ、言われたのがこれです。

馬謖は口先だけの男だから、信用してはならない。

フラグ立ってますね😅
先王は馬謖の才能に疑問を感じており、諸葛孔明の寵愛ぶりに釘を刺していました。

三国志演義ですから、あとづけ要素が強いのですが、泣いて馬謖を斬るときに、

「先王の遺言に耳を貸さず、馬謖を登用した自分の不明さに悔し泣きした。」

という形で見事に伏線回収されています。

「泣いて馬謖を斬る」は、

「創業者の遺命は、時代や組織の変化とともに反故にされることもあるが、結構もっともなことを言っている。」

という示唆もあるかと。

諸葛孔明は命を懸けて創業理念を守りましたが、それに続く人材がいなかったこと、育てられなかったことが蜀滅亡の一因になったのではないでしょうか。

◇ 

三国志演義は史実をベースにしたフィクションですから、このようなフラグは作中にあまた登場します🥺これについてはまたnoteで。

人を育てることの難しさを感じる今日この頃。

長文をさいごまで読んでいただきありがとうございました!

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