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鷹山公にみる福祉の精神

コップに半分くらいお水が入っています。
コップには「もう半分しかお水がない」のでしょうか?
コップには「まだ半分もお水がある」のでしょうか?
皆さまはどちらだと思いますか?

なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり

上杉鷹山書状

上杉鷹山ようざん公の超有名なお言葉。
ビジネスシーンでも、良く使われておりますね。「強い意志を持ってすれば必ず結果が出るよ~(=゚ω゚)ノ ムチャブリ?」のような。

確かに、鷹山公が米沢藩主となった時、藩の財政は破綻しており、改革を断行しようとすると「そんなこと出来るわけない!」とか「財源どうすんだ!」などと反対派の猛反発があったわけで、そこでこうした名言が生まれたのですが…。

何だか……昔も今もその辺は変わらないですよね(-ε- )
鷹山公の場合は反対派を粛清するなど、かなりハードな推進力。



しかし、この名言にはもうひとつの物語がありまして、それは鷹山公の正室、よし姫とのエピソードです。

幸姫は米沢藩主上杉重定の娘でして、鷹山公とは同い年(2歳年下という説も)です。鷹山公は九州秋月家からきて家督を譲られた婿養子殿ということになります。

あまり知られてはいませんが、この幸姫、幼い頃より障がいがありまして、重い知的障がい、身体障がいがあったと言われています。(知的には2~3歳程度だったそうです。)

鷹山公は、ご内室がそうであっても、けして粗略にすることなくいつも優しく接し、雛遊びやままごとをして一緒に遊んだそうです。

幸姫は30歳という若さでこの世を去りますが、生前は側室をおくこともなく添い遂げられました。

若き日の鷹山公は、幸姫によく鶴を折って喜ばせていたそうです。
ある日、布で作った人形を幸姫お渡ししたところ、無地の人形の顔に一生懸命お化粧をし始めました。鏡を見ながら、ご自分のお顔にとても良く似せて描かれておりまして、できた人形を鷹山公に嬉しそうに見せました。

それを見て鷹山公は心から驚き、感心したそうです。

それからというもの、幸姫の気持ちのおもむくまま、晩年までたくさんの絵を描かせたということです。

鷹山公はもしかしたら、「たとえ障がいがあろうとも、できることはたくさんあるのだ。」、「障がいがあるから何もできないと決めつけていたのではないだろうか。」と思われたのではないでしょうか。

そう、「なせば成る。」のだと。

そして「幸姫にはこんな才能がある。」「こんないいところがある。」、そうした可能性を見つけてあげないこと
、支援してあげないこと、

それはまさに「人のなさぬこと。」なのではないでしょうか。

そんな背景と、仲睦まじいお二人の姿に想いを馳せて、この名言を読むと、また違った人生賛歌が聴こえてくるような気がします(´・ω・`)

おわりに

養父重定が幸姫の様子を知ったのは、幸姫が亡くなられた後だったそうです。現代の感覚からするとありえないのですが、当時は「子供の顔を知らない」とか、「会ったことがない」とか、武家の習わし上そういうことも、まぁまぁあったそうです。ですから、そのことを知った養父重定は涙を流して、娘に添い遂げた鷹山公に感謝したそうです。娘婿であり米沢藩財政を立て直した鷹山公には、きっと感謝しきりだったと思われます。(重定は散財ばかりしていたそうですが……。)

鷹山公は民の勤労、勤勉を奨励し、そうした努力をする者に褒美を与えた記録が数多く残っています。また弱き者に対しての救済にも力を注いだと言われています。幸姫のことも、何かお考えの中にあったのかもしれません。

改革を断行する中で、米沢藩士の大規模な人員削減リストラもしていきました。その中には江戸屋敷で幸姫のお世話をする女中もおりました。幸姫には重い障がいがありましたので、介護をする女中も数多く必要であり、鷹山公の部下もその状況を忖度そんたくしてリストラに反対をしました。しかしそこは情を挟むことなく、お互いに痛み分かち合うという選択をし、ほとんどの女中に暇を出したそうです。

鷹山公は、菅前首相も仰った「自助・共助・公助」という三助政策を提唱したことでも有名でして、まさに我が国の「福祉のさきがけ」となった屈指の名君であらせられます。
福祉教育に携わる身としては尊敬してやみません。
(; ・`д・´)💦

最後までお読みいただきありがとうございました。

もしよろしければ、鷹山公にまつわるエピソード、私の記事「福田餅」もご覧ください。おかげさまでたくさんの方にお読みいただきました。

https://note.com/o3days/n/na4ff0d4162b1


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