「思考する感性」と教養、あと教科書

冒頭

「因数分解」はスーパーの買い物で使わない。古文単語は日常会話で使うことはない。分詞構文?そもそも外国人と喋らない。

実際のところ、24歳になり、就職した今でも「あの頃習った訳の分からないもの」が実際の社会で日常的に役に立っているか、と聞かれると、自信をもって肯定できない。

只々ありていに言えば、「学んだことは無駄ではない」と思っている。

さりとて、「学校で学ぶことの何を将来使うっていうんだい!」という思春期にありがちな質問(大の大人がそんなことを言うのは情けないのでありえないものとする。)に対し、
「じゃあTVゲームも飛行機も家電もない世界に住んでろ!」という返しをするのも、少々大人げないし、何より面白味に欠ける。

「何者にも成れる」世界の「何者にも成れない」ものたち

インターネットやメディアで常に各分野の世界一、ないし世界最高峰の能力を持つ人々を身近に感じられ、現代社会は過去に比べて最も「何者にでもなれる可能性がある」社会になっている。

ただ、それと同時に、現代を生きる若者は「何者にも成れないリスク」をも抱えて生きている。インフルエンサーになるのは一つの生き方だが、東大京大+早慶だけで一学年3万人近いことを考えると、どちらのほうが「結果を可視化しにくい」かはよくわかるだろう。

翻って僕は、自分のことを顧みるに、現実的に計算をしたうえで少なくとも「何者かにはなれそう」だと判断しているし、社会から「で、お前は何をしたいんだ」と、とりあえずこちらの話を聞いてもらうことくらいはできそうだ。周囲も、僕に対して僕が何者かになることを期待してくれている。勿論インフルエンサーでも芸能人でも何でもない。ただ、みんなと一緒にお勉強をしてきた。

就職活動でも、さほど苦労しなかった。
詳細は差し控えるが、大学院修士1年生の1月初頭にもらった内定はそこそこの良カードで、結局その企業に就職した。

それは紛れもなく、周囲から享受してきた環境にあり、そしてその中で、能動的であれ受動的であれ「一定のものを積み重ねてきたから」だといえる。
そしてそれは、決して特殊な経歴や経験ではなく、田舎の公立中学校に通う片田舎の男子にすら出来ることの積み重ねだった。少なくとも、それが大きなウェイトを占めていることは間違いない。(自分の家庭環境には感謝しているが、それは今回の本旨ではない。)
大学院、学部、高校(僕は田舎育ちなので受験は高校が初めて)で出会った仲間たちは、これまでの生活の中で様々な示唆や模範とすべき姿を僕に示し、「少なくとも努力をし、可能な範囲で物事を積み重ねること」の重要性を見せてくれていた。

「思考する世界」に身を置く

「思考することに慣れている」、というのが、大学院修了時の素直な感覚だった。思考はなかなか一人で継続できるものではない。一人で思考したその先に、意見があり、論争があり、合意点があり、示唆が残る。つまり、議論を通じて思考が継続する場において必要なのは「思考できる人間」ではなく、「全員が日常的に思考すること」にある。必ずしも高尚な学問的内容とは限らず、どんなに世俗的なことであっても、或いは低俗だと言われるような内容であっても、「思考を追求すること」には須らく共通するポイントなのだ。

日頃から思考する場所に身を置くには、少なくとも「因数分解が必要」なのではなく、「因数分解くらい出来る思考力と思考習慣」が求められている。
その意味で、僕は中学校や高校で習う教科書的な内容が「人生の役に立つ」と言える。

思考力と思考習慣を持つ企業は当然、思考力と思考習慣を持つ人を求めるし、そしてそのような「思考≒知的活動」が継続できる人材に対しては、やはり慎重にその後の流れを尋ねていく。これは当然の流れであろう。

ちなみに、その「思考することが当たり前の世界」でなされる雑談には、もちろん因数分解も分詞構文も源氏物語も登場することがあるし、そんな世界に入るころには、こんなかたっ苦しい話題でさえも、深みのある議論ができるようになる。そしてそこから得る「新しい発見」が自身の感性、教養としてインストールされる。

ところが、現在の社会では、その「教科書的な知識」が、日常生活に直接的に役に立つシーンが、残念ながら、誠に残念ながら、増えてきてしまっている。

「教科書が役に立ってしまう世界」

昨今、巷で聞くようになった「マスクをつけると感染リスクが増える」だか、「光の世界大統領が闇の支配者・ディープステートと戦っている」だか、「実は地球は平面だ」、「体にマイクロチップが埋め込まれて5Gに繋がる」だとか、そういった「義務教育の敗北」に対し、理屈をもってどのように「啓蒙」するか、という非常に難解な問いに我々は直面している。

そういった現象(少なくとも彼らは実際の現象として認識している)で騒ぎ立て軽挙妄動に現を抜かす輩は、少なくとも正常な議論をもって説得することが難しい。何故なら、彼らは「教科書はデマだ」「メディアは噓をついている」といった、世の物事、法則を根拠なく覆す(少なくとも彼らはそのつもりである)という荒業をもって脳内でファンタジーを形成してしまっているからだ。

普通に考えれば、体に埋め込まれた(としよう)マイクロチップ(そもそも現代の工業技術では作れない)は、電源もなければ、発電可能なゼロ距離に電磁波の発信源もないため稼働できない。

こんなことは中学校の理科をある程度ざっくり理解していればあっさり「デマ」だと見抜けてしまうのだが、そんなことを真面目腐った顔で、どころか恰も自身こそが啓蒙主義者であるかのような態度をとって宣うのだから、そろそろ娯楽としても楽しむことが出来なくなってきてしまった。
しかも、そういう輩は大概の場合、高学歴に対する偏見が強くあり、反知性的な行動や、反エリート主義的な言動を好む自己矛盾も甚だしく目も当てられない惨状だが、こういった有象無象が結託して出来上がった勢力が政治の世界にも食い込んでいるのだから、もはや笑って傍観しているだけでは済まない。

教科書に載っているものは、自身が身を置く環境を育てる「教養の種」であったはずなのだが、それと同時に「現代を生き延びるツール」にもなった。
これが実学なのか・・・?にしても、程度の低さに呆れるばかりである。
是非ともこうならないように、「教養」は大事にしていきたいし、次世代に向けて「教養の魅力」を伝えらえる人間になりたい。

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