高安正明
かなり昔に歴史学をちょっと勉強したものとして、近年いろいろと話題になりつつある「民族」についての話をしてみたいと思います。
「あいちトリエンナーレ」騒動で一躍マイナスの意味で時の人になった「メディアアクティビスト」津田大介。基本的にクリエイターとしての適性を持たない彼が、どのような形で「芸術監督」の肩書を得るに至ったかを、21世紀初頭のメディア界における「現象」として分析を試みます。
言語というのは民族を構成する重要な要素の一つです。 この一連のお話で定義している「近代国家を形成することを前提とする存在としての民族」の場合、その言語はその民族内部で共通語化されている必要があります。この共通語化の作業において「文字を持つ」ということは極めて重要な要素となります。 日本語は日本民族が成立する過程で、共通語が作られていきました。 アイヌについては、20世紀の終わり頃からではありますが、共通語のようなものが作られつつあるようです。 今ではほとんど死語になっ
アイヌという種族についての誤解が、日本には数多くあります。 その最たるものが「アイヌは日本の先住民族だ」ということなのですが、この一連のお話においては、「現在のアイヌは民族と言えそうなものになりつつあるが、その動きが始まったのは極めて最近の話じゃないかね」と疑問を呈しているわけです。 それ以外にもいくつも誤解があり、前回は「アイヌと平安時代初期の蝦夷は同族だ」という誤解を否定しました。 今回は、アイヌに伝わる叙事詩「ユーカラ」のひとつである「虎杖丸の曲」を参照しつつ、「
前回の最後に、アイヌ文化というものにとって鉄鍋に代表される鉄器というのは非常に重要な位置を占めた、と言いました。 しかし、アイヌは鉄器を作る技術を持っていなかったのです。 鉄器の製造工程はいくつかに細分することができますが、大きく分けると「製錬」と「鍛冶」になります。 「製錬」は砂鉄や鉄鉱石、つまり酸化鉄として自然界に存在する鉄を、加熱して還元しつつ溶かし、加工可能な鉄塊を作る工程です。つまるところ「もののけ姫」に出てきたたたら場のような施設で行われるものです。 「鍛
日本は単一民族国家だ、というと、すぐにその発言を不謹慎だと攻撃してくる人たちがいます。 彼らの言うところによると、日本にはアイヌ・ウィルタ・ニヴフといった少数民族がいた、だから「単一民族」というのは日本民族による勝手な言い分に過ぎない、となります。 ところが、前回・前々回でお話した民族の定義によりますと、その主張に対していささか疑念を抱かざるを得ないわけですね。 そちらの定義によると、アイヌ・ウィルタ・ニヴフは「民族の卵」のようなものではありました。ですが単独で「民族」
前回は「民族」の定義について話をしました。 短くまとめて言うと、「民族」というのは、「国家」という概念と非常に密接に結びついています。近代的な国家は、ある民族の固有の経済的・政治的利害を守るために形成されるものです。あるいは、近代的な国家を形成するために、それまでタテ社会だったものをヨコ社会に作り変え、「民族」を生み出す、ということもできます。 これはいわゆる卵が先かニワトリが先か論と一緒です。あるケースでは民族の方が先にできたり、別のケースでは国家の方が先にできたりしま
「民族」について話をします。 なんだか最近よく使われるようになった「民族」という言葉ですが、その定義ってどんなもんなんでしょう。 実を言うと、同じ「民族」という言葉であっても、政治学や歴史学など、それを扱う学問のジャンルが変わると、意味が変わってきてしまいます。同じジャンルの学問でも、研究者によって定義が変わるような気がしないでもありません。 そういうわけで「この解釈こそが決定版だ」などとは言えないのですが、ここでは歴史学の一分野で行われていた定義を、できるだけ他の方に
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