その6

言語というのは民族を構成する重要な要素の一つです。

この一連のお話で定義している「近代国家を形成することを前提とする存在としての民族」の場合、その言語はその民族内部で共通語化されている必要があります。この共通語化の作業において「文字を持つ」ということは極めて重要な要素となります。

日本語は日本民族が成立する過程で、共通語が作られていきました。

アイヌについては、20世紀の終わり頃からではありますが、共通語のようなものが作られつつあるようです。

今ではほとんど死語になってしまった言語を再生して共通語化しようというのは、あまりまっとうなやり方とは思えないような気もするでしょうが、ユダヤ人はヘブライ語という死語を再生して自分たちを「民族」たらしめ、イスラエルという国まで作ってしまいましたから、前例がないわけではないのです。

さてアイヌ語ですが、一部に非常に根強く「ヤマト王権に征服される前の本来の日本人(つまりアイヌと同祖の人々)が使っていた言葉だ」という信仰に近い説が唱えられています。

北海道に住んでいた「アイヌ」でも、南部と北部ではかなり言葉が違っていて意思の疎通はほぼできなかったということですが、ここでは面倒なのでひっくるめて「アイヌ語」として説明します。

「東北にはアイヌ語由来と思われる地名が多数ある。これがアイヌが日本の先住民族だった証拠だ」と。

ただ、「語彙が共通する」ということは、必ずしも「その両言語が同根である」ということを意味しません。文法面で言うと、日本語とアイヌ語はその根本発想からして全然別モノなのです。

「アイヌ語」は抱合語と呼ばれるグループに属しています。これは次々と言葉を放り込んで長い長い動詞を作れてしまう点に特徴があります。日本語ではこんなことはできません。

言語学の上では、「アイヌ語」は近隣に同系列の言葉を持たない、孤立した言語だとされています。しかし、同じ抱合語に属する言語を使う人々は、他にも存在するのです。

近いところで言えば、カムチャツカ半島の根本あたりに住む人々が使っていますし、いわゆるアメリカ・インディアンの諸部族が話す言葉も、多くは抱合語だと言います。

前回、アイヌは紀元1000年代の中盤ぐらいまで千島やカムチャツカでラッコを追っていたのではないか、という話をしましたが、「抱合語を使う人々」という視点から考えてもこれは無理のない仮説になるのです。

なお、以前生活習慣の相違からアイヌと同族ではないとした平安期の「蝦夷」族ですが、これは日本人と通訳抜きで会話ができたと言います。

蝦夷とは違う北方の異種族の中には、通訳を介さないと意思の疎通ができない人々もいた、と記録されています。しかしそれは訛りの強すぎる方言だったのか完全な別系統の言語だったのかはわかりません。現代の標準語しか知らない日本人も、東北弁ネイティブの人と直接会話を成立させることはできないでしょうから。

というわけで、言語的に見ればアイヌは東北・北海道に以前から住んでいたのではなく、千島・カムチャツカ方面からやってきて北海道に住み着いた可能性が濃厚となるのですが、「だったら東北に残るアイヌ語由来の地名はどうなる」という疑問が出てくるでしょう。

いわゆる「アイヌ語地名」の不思議な点は、地形等を意味する普通名詞や形容詞の集合体で作られたものしかない、というところにあります。

例えば「イシカリ」という言葉ですが、これは「美しく作る川」を意味する「イシカラペツ」から来ているのだそうです。他の説もありますが、いずれにしろ普通名詞と形容詞の結合体です。

これはわたしの勉強が足りてないせいかも知れませんが、その由来について物語ったお話とセットになった地名というのを見たことがないのです。

例えば茨城県の牛久には「女化」(おなばけ)という地名があります。これは狐が女性に化けて子供に乳を与えに来た、という説話に基づいて付けられた名だ、とされます。先に古い日本語やいわゆる「アイヌ語」に由来する地名があり、後付で説話を作った、とも言われますが、いずれにしろ地名と説話がセットになったものは、日本中あちこちに存在するわけです。

そういうのが「アイヌ語地名」にはない。

地名説話ができるのは、地名が古くなりすぎてそういう因縁話を作らなければ後世の人々は理解できなくなっていたからだ、と思われます。

言語は生き物ですから、長い間に発音は変化していきますし、単語の中には使われなくなってしまうものもあります。さらには地域差というものもある。

そういう謎になってしまう部分が少なく、普通名詞と形容詞で説明がついてしまう地名ばかりというのは、いかにも不審です。というわけで「由来はさほど古くないのではないか」という疑いが湧き出てきます。

文字のない世界においては、ただ単語の発音があるだけなので、外来語と本来の自分たちの言葉との境界があいまいです。ちょっとしたきっかけで、どんどん外来語が流入してしまう可能性が常にあります。1000年以上発音と意味が変わらないし外来語の影響も受けない、という方が異常なのです。

もう一つ指摘しておきたいのは、「アイヌ語の単語」にも数多くの外来語があるということです。つまり、古い日本語と「アイヌ語」の中に共通の単語が見つかったとした場合、それが日本語に取り込まれた「アイヌ語」なのか、その逆なのかはよく調べないとわからないのです。

例えば女子を意味する「メノコ」は「アイヌ語」に取り込まれた日本語だと言うことがほぼ定説になっています。父親を意味する「アチャ」はロシア語「アチェーツ」が元だという説は現時点では笑い話に近いものとなっていますが、完全に否定もできません。「アチェーツ」の生格型「アッツァー」はさらに「アチャ」に近くなりますし。

さらに、マタギの言葉には「アイヌ語」と同じものが数多くある、と言われますが、先の理屈によればこれはマタギ言葉→「アイヌ語」なのか、「アイヌ語」→マタギ言葉なのか調べないとわかりません。

代表的な例に、小刀を意味する「マキリ」がありますが、かなり後にならないと鍛冶技術すら持てず小刀を自製できなかったアイヌが、マタギより先に「マキリ」という言葉を発明し、使っていた可能性は低いと言わざるを得ません。

このあたり、さらに詳細な検証が必要なのではないでしょうか、ということを繰り返して、今回は締めとさせていただきます。

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