その3

日本は単一民族国家だ、というと、すぐにその発言を不謹慎だと攻撃してくる人たちがいます。

彼らの言うところによると、日本にはアイヌ・ウィルタ・ニヴフといった少数民族がいた、だから「単一民族」というのは日本民族による勝手な言い分に過ぎない、となります。

ところが、前回・前々回でお話した民族の定義によりますと、その主張に対していささか疑念を抱かざるを得ないわけですね。

そちらの定義によると、アイヌ・ウィルタ・ニヴフは「民族の卵」のようなものではありました。ですが単独で「民族」と呼べるようなものに成長することはなく、明治期に「日本民族」に合流することによって、自分たちの「近代国家」を手に入れた、という感じになります。

ウィルタやニヴフは実に少人数でしたから、言葉も生活習慣にさほど大きなバリエーションはありませんでした。

しかし、アイヌは北海道のそこかしこに「コタン」を作ってバラバラに住んでいました。彼らがコタンを超えた統一体を作ることは最後までなく、言語の方も、道南の住民と道北の住民ではまったく通じないほど違っていたのです。

近代国家の形成を志向する「民族」であるならば、まずは地域を超えた共通の価値観の創出と、言語の共通化を図っていかなければなりません。

アイヌの場合、それが全くなかったか、というと実はあるとわたしは考えるのですが、それが行われたのは20世紀の終わりから21世紀の始めにかけてです。

つまり、現在進行形なんですね。

かつて「民族の卵」であったけれど、結局孵化せずに日本民族に吸収される形で近代国家の一員となった人々が、その国家の中でまた改めて共通の価値観を作り、言語を統一している。こうした動きがあることは否定しようがない。

現在、「アイヌ民族」を作ろうとしている人たちが、かつて日本民族に吸収された「民族の卵」としてのアイヌと関係があるのかどうか、彼らの生活習慣をちゃんと引き継いでいるのかどうかはこの場合問題ありません。

そうなんだという価値観を共有することが、そもそも新しい「アイヌ民族」の定義になるわけですから。

それは、「2000年間天皇家を統合の象徴とし続けたのが日本民族である」という価値観を共有するのと同じことです。同じレベルで尊重されなければならないでしょう。

問題点は、こことは違う点にあると、わたしは考えます。

それは何かというと、「民族」と「近代国家」はコインの裏表であるから、「ほにゃらら民族」を名乗るということは、「ほにゃらら国」を建設するぞという意思表示になっちゃうんだよ、ということです。

つまり、「アイヌ民族」を名乗る方々は、原則的に日本国から独立して、アイヌ共和国を作る覚悟を決めていなければならないのです。

本人たちにその気がなくても、周囲は「ああこの人たち自分の国を作る気だな」と解釈しちゃいます。覚悟がなければ民族を名乗ることは難しいのです。

この独立というのが、非常に困難な事業になります。

何度も述べてきたように、まずはその前提として価値観の共有・言語の共通化を図らなければなりません。

それと並行して、政治的・経済的基礎の確立が必要です。つまり、将来自分たちの国家のものとなる領域を区切り、経済的に自立しなければなりません。

国家の領域が適当で、なおかつ経済的に自立できないのであれば、独立なんでする意味がありませんからね。

特にアイヌの場合、経済的自立というのが難しい。

というのは、周囲の民族の歴史書に登場するアイヌの祖先だと思われる人々は、一度として自律的な経済圏を築き上げたことがないからです。

彼らは狩猟民で、毛皮を取っては他の人々に売りつけ、その代わりに各種の生活必需品を入手していました。

現代日本人の多くがイメージするような、素朴な自給自足の生活を送っていたわけではないのです。

かつてのアイヌの人々にとって、鉄鍋は重要な生活必需品でした。しかし、彼らは独自に鉄器を作ることができず、和人からの輸入に頼っていました。

次回は、このアイヌと鉄、さらには「蝦夷」と呼ばれた人々との関係について、さらに深堀りしていくことにします。

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