page.1 共同化原理
本書は既に,喧嘩というものを以下のように定義した。
喧嘩:トピックに対し,ある論理体系間で,その真偽や成否を論理を以て争うもの。また,その態様。
このページでは,上掲の定義について,「なぜ,プレイヤーらはそのようにして命題の真偽を争うのか」を記すことで,一層深いところに言及する。
このことには,喧嘩の正体を次のように捉えることで答えることができる。すなわち,コミュニティが内在的に持つ画一化作用だということである。コミュニティが円滑に機能していくための自治機能だとも換言できるだろう。このような作用の実行を,共同化と呼ぶ。
たとえば,人を助ける法律を作ろうという目的を共有する 10人↔︎{a1,a2,…,a10}∈A からなる全会一致を規範とする合議体Aがあったとする。
このとき, {a1,a2,…,a9} までの9人は,「ある法案bの立法が人を助けることに繋がる」↔︎ B と考えており, {a10} だけが否定しているとしよう。このようなとき, A は─── b の立法が人を助けるものであるか否かをその対立軸として───コンフリクトを起こしているという。
繰り返すが, A において立法が人を助けるものであるか否かといった価値観の共有が出来ていないことによってコンフリクトが起こるわけである。
このコンフリクト解消のために行われる喧嘩は,つまり {a1,a2,…,a9} が {a10} と,命題 B の真理値を共有するために行われるわけであり, {a1,a2,…,a9} から見れば, {a10} とその論理体系を共同化するためには, {a10} の論理体系に存する ¬B について,これを B に変容させなくてはならない。
もっと実態に近い表現としては,以下のようになるだろう。すなわち, {a10} の論理体系で割り当てられるBの真理値が偽なので,これを真に変容させなくてはならない。このような動機が, {a1,a2,…,a9} ───のアバター───には認められるわけである。
逆に, {a10} のアバターから見れば, {a1,a2,…,a9} と共同化するため,彼らの論理体系では命題Bの真理値に真が割り当てられているので,これを偽に変容させなくてはならない。このような動機が働くわけである。
そうして,互いのアバターには共同体意識が認められるし,その動機は論理体系の共同化である。
しかし,少し設定を変えて,今度は {a1,a2,…,a9} までの9人は「休日は読書をしたい」と考えており , {a10} については「読書なんて一生したくない」と考えていたとする。このようなときはコンフリクトがただちには生じないことは明らかだろう。このような意思の不一致があったとして, A としてはなんらの支障もないと認めるからである。つまり,共同化しようという範囲と,そうでない範囲がある。それを踏まえて,ある一群の命題に割り当てる真理値を共有しようというから,互いの論理体系の共同化だと言ったのである。ここでコミュニティというのは,一体の人間を要素とするのではなく,その本質は命題群である。
繰り返しになるが,前者の例のように,コミュニティとしての円滑ないし成否に関わるような論理的な齟齬(すなわちコンフリクトの起因)が認められたときに,そのコミュニティが持つ自治機能として実行されるものが喧嘩だということである。このような“喧嘩の生起”に対する捉え方は,次のような“喧嘩の実態”に対する考え方とも親和性が高い。すなわち,一般に喧嘩とは,言葉の定義を争うのだと換言できるという考え方である。任意のトピック「 C は D だ」というのは, C という言葉の定義が D を内包するか,といったことを争うのが基本的な解釈である。このような実態は,言葉の定義が共有出来ていないコミュニティ内でのコミュニケーションが非円滑になるであろうことを考えれば容易に受け入れられるはずである。逆に定義が共有されていれば,そのコミュニティ内でのコミュニケーションは円滑になるはずである。このような不都合を解消しようというときに生じるのが,喧嘩である。
そして,このような喧嘩の起因はなにもアドホックな例ではなく,喧嘩の本質を捉えている。すなわち,プレイヤーの真意に関わらず,なんらかのトピックに対して真偽を論じ合うという行為は,必然に,少なくともアバター間というコミュニティに対して,そのトピックにあたる命題の真理値を共有しようという働きを持ってしまうのである。つい先ほどこのページで
このような不都合を解消しようというときに生じるのが,喧嘩である。
といったが,繰り返すようにこれはプレイヤーの意図に依らず,喧嘩の態様(トピックの真偽を争う)が実現されているとき,必然にコミュニティの画一化が行われるという構造を指している。このような喧嘩の実態に対する捉え方を,〈共同化原理〉と呼ぶ。
「なぜコミュニティはこのような自治機能ないし画一化作用を持つのか?」といったことについては,“コミュニティ”のページで詳述するが,簡単に言えば,画一化すると活動が円滑になるのだ。つまり,楽なのだ。自身の円滑な活動を危殆に曝し得るものを排除するのは,“機能”が自分自身を維持するための重要な能力であり,これはコミュニティであっても,単独の人であっても変わらない。
では,喧嘩の果てにあるのは極限まで画一化されたつまらない世界だろうか?…おそらく,現実的にはそうならないだろう。たとえ喧嘩の実質がコミュニティの画一化作用,その実行であったとしても,その人の真意がアバターとしての論理体系に反映されているとは限らないからである。むしろ,たとえ真意そのものを写した論理体系を以て喧嘩をした結果,そのトピックにあたる命題の真理値が相手の論理体系と同化してしまったとしても,そのときとは違った論理展開を表示して再び喧嘩をすることができるはずである。
人は真意と異なる立場を意図して作出することができるのであり,また表示することができる。このように,ある人によって作出された論理体系のことを,その人のアバターと呼ぶ。このような考え方を〈アバター理論〉と呼ぶ。