形而上世界における音楽と人の隔絶

 最近「リモート〇〇」という言葉がお茶の間でも台頭してきたが、こと音楽でも「リモート演奏」という概念が一般化してきたように思う。ただ、動画配信サイト等ではリモート演奏は (受け手がそう認識していたかは別として) ポピュラーなものであったが、こうしてメジャーなアーティストがそれを行っていると、特別で新しい概念として登場してきたかのように思われる。

 音楽の世界ではそのような事象が頻繁に起こってしまう。アーティストは神聖視され、知名度を測る基準であるフォロワー数やインプレッション数などの数字はその原義を超え「影響力」という名辞に置き換わる。これは現代版の宗教と呼んでも差し支えないようにさえ思われる。

 音楽はその性質上、届ける側と受け取る側の間には物理的な距離が生まれる。インターネットの普及はその距離を極限まで伸ばすことに成功した。その過程において、音楽家と呼ばれる人たちとそれを受け取る人達との距離の広がりは、物理的なものだけでなく心理的な意味も含むようになっていった。

 つまり、直接顔が見えないアーティストを神聖視してしまいがちであることの根源はそこにあるのではないか。

 音楽では―――それの主題が現在クラシックと呼ばれるものであった頃は―――聴き手には「理解力」が求められた。その場の音楽の和声的な構造や変化など、そのロジカルな部分を音色と合わせて楽しむことが「鑑賞」とされていた時代である。この時代に音楽の基礎は作られ、発展していった。

 しかしそこからJazzなどに派生してくると、それは理解力や予備知識を持たない層とマッチすることになる。アドルノがその点も含め「それが大衆に対しては風俗として現れる」として批判してきたのはあまりに有名である。

 今現在の音楽はどうだろうか?作り手はあいも変わらず先人が残したギミックや新しい工夫などを楽曲に盛り込むことで自分の音楽性を洗練させている。しかし、前述した物理的・哲学的な距離がトリガーとなり、聴き手は盲目的にそれを「良いモノ」だと信じることになる。そこにはアーティストの工夫点などを楽しむいとまは存在せず、暫定的に良い曲として受容することになる。

 それが良いことなのか悪いことなのか、一概には言えないだろう。それを認識したマネジメントが出来ればプラスだろうし、盲目的にしか受け取られないことでモチベーションが下がってしまうならマイナスだと思う。しかし音楽が形而上の概念的存在である以上は、こういった背景があるということを考えるのが必要なのではないかと、そう思う。