GOを読んで。走れ。
久しぶりに小説。
駆け抜けられていないのは私が言い訳しているからなのだろうなと読み終わって思った
杉原は言い訳をしない。受け入れて、そのまま進んだ。
やる覚悟ができている。傷つけて、傷つけられても、それでも遠くまで行くことができる。
物語は終わったが、その後どうなるのかな、と 気になった。
杉原は桜井と一緒に居続けるのかな。
杉原はどこまでも行くのだろうが、桜井はどうなるのかわからないなと思ったりした。
桜井の心情があまり理解できない感じだった。若さというやつなのだろうか。
杉原の果てが個人的に気になる。どこまで行くのだろうか。途中で燻ることはなさそうだなと思ったりした。
どこまで遠くに行けるのだろう。それが見たかったし知りたかった。
だけど小説で描かれた部分が杉原の根幹的な部分を構成する物語だったのだろう。アイデンティティの話だった。
晒して、傷ついて、それでも俺は俺だったという話。
どんな奴が来てもぶっ飛ばしてやればいいと思ってたけど桜井みたいな人と出会って差別が怖くなった、とか、この辺りのシーンはすごく良かった。
杉原に現れた変化だ。完璧な理論だったが、異質な他者一人と出会うだけでこうももつれるのだ。
杉原のタフネスは良かった。強くあるために頑張っている姿、日課をこなす姿も良かったね。それがどうということでもないが、そういう存在を物語上で感知できるだけでも、良いものだ。日課を毎日こなす、やっつけなければいけないすげぇやつがいるから。強くならなければならないから。
そういうのは確かにgoっていう単語から感じる疾走感、躍動感に通ずるリズムだと思った。そうなんだよな。クソッタレな現実、うざい敵たち。どうしたらいいかわからねぇ。弱い自分。でも友達はいるぜ、負けるわけには行かない。俺はどこまでも行かなければいけないんだ。
そういうパッションは熱く、忘れてはいけないものなのだと再認識する。トライガンのリヴィオっぽさも感じるね。
ユースフルデイズ。ミスチルの中でも際立って、「お」となる曲だった。他の曲と比べるとミスチルっぽくない音楽として聞こえた。悪い言葉で言えば浅い。でも速い。瑞々しく脈打つ感じがある。私はどうやってこの曲と出会っただろうか、もう覚えていない。だが今より若かった私は、この曲には親近感を覚えた。この音楽は今の俺のものだなという感じが、他の曲と比べてあったのだ。等身大さがあった。他のは背伸びしないと聞いていられない感じがあった。今じゃ他の曲も親近感を感じるようになったけど。「わかるわー」って。増えたのだ。
若さとか、これしかなさ、とか。これを外したらもう全部ダメになっちまうぜ、みたいな不安定さ。そういう若い生命。何にも編集されていないナチュラルボーン。こいつでどこまでもぶっ飛ばしていくんだ。この苦しみは俺のものだ。誰のものでもない。俺だけのもの。こいつがあればどこまでもいくんだ。
それは誤解か本物か。いや、俺も杉原も本物だ。そこに別のものが絡むから足取りが重くなる。本当じゃない気がしてしまうのだ。
苦しみって、嫌な思い出って、傷って、なんなのだろうね、杉原よ。
でも立ち向かうしかないよな。そういう誓いが、我々にはあるのだ。
違いは、走っているか走っていないかの違いだ。
走ろう。杉原のように。
個人的には、レボリューションno3の
ランボーイズランの方も同等に、もしくはそれ以上に良かった。
捕まりたくなければ走るしかない。
そういうことかぁ。だったら俺は捕まってしまった側の人間か。
いつからだろうな。そして本当に捕まっているのだろうか。そういうことを考える必要はあるよな。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?