嫌いという感情が自分を守り世界を守る
日本には「嫌い」という感情を表に出すことを悪とする風習がある。
学校でも好き嫌いは良くないことだと教えられることが多い。
たしかに誰もが自由気ままにアレが嫌いだ!コレが嫌いだ!と発信する社会は醜いし不健全だ。
『ガルちゃん』や『好き嫌いドットコム』なんかはその典型だろう。
しかし、嫌いという感情そのものが悪いのか?と言えばそうではない。
むしろ嫌いという感情が自分や世界を守ることも多いのではないだろうか?
1.「嫌い」はなぜ存在するのか
そもそも嫌いという感情はなぜ存在するのか?
自分を守るためである。
かつて人間は悪臭や苦味を嫌うことで、腐った食べ物や毒キノコなどを避けることができた。
あるいは蛇や害虫などを嫌うことで危険から逃れてきた。
つまり嫌いという感情は危険を知らせるアラーム機能としての役割を持っていたのである。
2.現代における嫌いの役割
では現代における嫌いの役割とはなにか?
これもやはり自分を守ることである。
ただし毒キノコや蛇からではなく、社会通念という暴力から身を守るのだ。
人は成長する過程で、親や教師から
「〇〇をしてはいけません」
「△△をするのは善いことです」
「〇〇という場面では△△をしましょう」
などと教えられる。
あるいはクラスメイトや職場の人間との触れ合いを通して
「この場面ではこういう行動をとるとウケがいい」
「あの場面でああいう発言すると周囲から引かれる」
といった"学習"をする。
多くの人はそれらの教え(社会通念)に疑いを持たない。
教え通りに行動するのが善いことだと信じている。
それがもっとも楽であり、社会から"まともな人間"と見なされるための最善手でもあるからだ。
だが何かを善いと思うことは、その逆の何かを悪いと思うことにつながる。
たとえば礼儀作法を厳しくしつけられた人間が他人の礼儀作法にうるさくなるのはよくある話だ。(完全に本末転倒なのだが)
同様に、社会通念を"善いこと"であると信じている者は、社会通念から外れた考えや人間に対して敵対感情を持ちやすい。
それゆえ(一般的なイメージとは反対に)残忍な行為の多くは非常識な人間ではなく常識的な人間によって行われる。
3.画一化された価値観と全体主義
画一化された善悪の基準はやがて全体主義へとつながる。
常識に従順な者ほど異分子を認めず、社会全体をひとつの思想に染めようとする。
そしてその暴力性に気づかない。
コロナ禍における日本はまさにオーウェルの『1984』を彷彿とさせる狂気のディストピアだった。
自粛やマスク着用を絶対的な「善」とみなし、異論を持つ人間は容赦なく糾弾され、その人格までもが否定される。
真夏の屋外で9割以上の人間がマスクをしていた光景もまだ記憶に新しい。
この異様な社会を率先して作り出したのは、常識に従順な"善人"たちだ。
4.全体主義を防ぐものは何か
ではこうした全体主義はどうすれば防げるのか?
ここで鍵となるのが「嫌い」という感情である。
親・教師の教えやクラス・職場の空気を律儀に守ることから画一的な善悪基準が生まれた。
そしてそれがやがて全体主義へと発展する。
ならば全体主義に陥らないために必要なのは、そうした教えや空気に真っ向から対立する精神だ。
「親や教師はああ言ってるけどオレは納得いかない」
「Aという考えがクラスメイトには人気だが、私はAという考えが大嫌いだ」
現実にそれを口に出さなくても構わない。
わざわざ周囲を不快にさせる必要もないだろう。
ただし心のなかでは「納得がいかない」「嫌いだ」という感情を持ち続けていたい。
その嫌いという感情こそが、自分を自分たらしめ、また全体主義への抵抗力になるからだ。
5.革新は常に少数派によってもたらされる
現在では我々が当たり前に持っている「人権」も数百年前には存在しなかった。
ロックやルソーを始めとする革新的な思想を持った人物のおかげで現在の人権がある。
キリスト、マンデラ、ガンジーといった歴史上の偉人もみな当時における革新的思想の持ち主だ。
彼らの原動力となったのは
「現行の制度に納得がいかない」
「こんな世の中は嫌だ」
という"嫌いエネルギー"にほかならないのではないだろうか?
少なくとも当時の社会通念と別の考えを持っていたことは確かだろう。
続く
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