見出し画像

存在しないイデオロギー

 誰しも一度は『イデオロギー』という言葉にを聞いたことがあると思う。小学館デジタル大辞泉いわく、

イデオロギー(〈ドイツ〉Ideologie)

1 政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態。
2 一般に、思想傾向。特に、政治・社会思想。

だそうだ。
 つまるところ、何らかの中核に対して一方向を向いた思考の傾向と言える。

 例えば国粋主義というイデオロギーでは、国を尊ぶという中核に対するプラスの思想だと言えるし、逆に攘夷思想は敵国の侵略という中核に対するマイナスの思想だと言える。

 そしてイデオロギーの面白いところは、この中核が意味を喪失してもなお機能し続けるというところだと思う。

 猿とバナナの思考実験の話を聞いたことはあるだろうか。

 部屋に10頭の猿と台を入れる。台の上にはバナナを置く。すると、猿は当然台に乗ってバナナを取ろうとする。その瞬間に10頭すべての猿に電気ショックを与える。
 猿たちははじめなぜ電気ショックが与えられたか分からないだろう。だかこれを何回か繰り返すうちに、猿たちはバナナを取ろうとする仲間がいると痛みが走ることに気が付く。

 こうして痛みを中核とした、「台のバナナを取ってはならないし、取らせてはならない」というイデオロギーが生まれる。

 興味深いのはここからだ。

 猿の内の一頭を全く別の猿と入れ替える。すると何も知らない新顔の猿は、台の上のバナナに手を伸ばそうとする。ほかの9頭の猿はどうするだろうか?当然、新顔の猿を台から引きはがし、ボコボコにするに違いない。
 そして新顔は「(何故だかわからないけど、台の上のバナナに手を伸ばした奴をボコボコにするルールがあるのだな)」と学習する。

 また最初からいる猿を1頭新しくする。すると、先ほどと同じ事が繰り返され、先ほどの新顔を含む9頭からボコボコにされる。そうしてルールを学習する。

 以上のことをはじめからいる猿がいなくなるまで繰り返す。
 そうすると部屋には見かけ上はじめに生じたイデオロギーによる秩序と何ら変わらない光景が広がっているが、どの猿もその中核を知らない。
 なぜ台のバナナに手を伸ばしてはいけないのかのも知らず、新しく入ってきた猿のボコボコにし続ける。

 このとき、「台のバナナを取ってはならないし、取らせてはならない」というイデオロギーは神聖化され、大衆によっては変えられなくなってしまった。

 ここで、電気ショックを無くしたらどうなるだろうか。台のバナナに手を伸ばしても電気が流れないように設定を変更するとどうなるか。

 イデオロギーには何の影響もない。どの猿もバナナを取ろうと試みないし、試みさせないからだ。理由が消滅したのにも関わらず、誰もそれに気が付かずに新参の猿をボコボコにし続ける。

 猿の世代交代を続ければ、イデオロギーは「台に近づいてはならない」に先鋭化してゆくかもしれない。
 その時にはもう台の上にバナナが置かれていなかったとしても、もはや何の関係もない。何の気なしに台に近づいた新しい猿をボコボコにするだけだ。

 ここで設定が「台の上にいないと微弱な電流が流れ続ける」に変わったらどうだろうか。猿たちの行動はやはり何も変わらないだろう。
 ほかの9匹にボコボコにするのを恐れて、台に乗ることを試しもせずに、皆で電流を甘んじて受け続けるに違いない。

 こういうことは人間社会でもよくあるのだと思う。

 僕は個人競技をやっていたのだけど、そこでよく監督が「チームのために頑張れ!!」と言い、キャプテンが「最高のチームだ!!」と鼓舞し、選手たちも「頑張ります!!」と叫ぶ光景が当たり前にあり、そこには確かなイデオロギーが存在した。

 正直に言うと僕は「チームのために頑張る」などというモチベーションは1ミリも持ち合わせていなくて、
「(僕は自分の考えに従って自分のためにこの競技をやっているのであって、なんで勝手に『チームに対する責任感』とか訳の分からないものを求められないといけないんだ)」
などとこまっしゃくれたことを思っていた。

 更に言えば、似たり寄ったりの自分勝手な理由で競技を始めた周りの選手たちが、一様にチームである事に誇りをもって監督の言に唯々諾々と従っていることが異様にすら思えた。

 しかしながら、数年後、引退してしばらく経った彼らにぽつぽつと話を聞いてみれば、結局のところ殆どの選手は僕と同じく「チームのため」などというモチベーションを、全く持ってはいなかったのだ。(数名、マジのカルトがいたが)

 つまるところ、時のキャプテンすらも各選手がチームのために頑張っているとは思っておらず、統制に便利だという理由で「チームのため」という中核を振り回していたに過ぎなかったのだ。
 今になって考えてみれば、監督すらもチームに対する心意気など大して持ち合わせていないのかもしれない。偶に感じた監督の冷めた態度もそう考えれば納得がいく。

 つまり、選手たちどころか監督までもが、自分の内には持ち合わせていないが誰かの心に存在すると思われる「チーム愛」という、結局のところ殆ど誰も持ち合わせていない中核を依り代にチームは統制されていたのだ。
(先ほども言ったが、稀にマジのチーム愛者がいた。きっと彼らが第二第三のイデオローグ・中核の体現者としてイデオロギーを補強してゆくのだろう)

 なんと優れた統制のシステムなのだろう。中核がどこにもないというのは、「こいつ再生するぞ!核を狙え!」が原理的に効かないということだ。強すぎる。


 この宙に浮いたファシズムとでもいうべき現象で、今日も世界は回っているに違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?