両親が尊厳死の宣言書を書いたら伊藤計劃『ハーモニー』の見方が変わった話

コロナ禍って大災禍みたいだよね

この前、頭の中の自分と
「『ハーモニー』の世界って〔確かに理想的だけど極端すぎ〕と感じるように描写されてると思ってたのに、このコロナ禍の最中だと〔特に捻りの無いただの理想社会〕みたいに思えてくるからほんとこえーよなー」
という談義に花を咲かせていました。

 この伊藤計劃の『ハーモニー』というSF小説は2008年に発表されたもので、当時からとんでもない作品が現れたと騒ぎになっていたらしいんですが(リアルタイム世代でないのが惜しまれます)、まあ本当によくできた作品です。
 現代は科学進歩が目覚ましく、あらゆるSF作品がものすごい速度で陳腐化してしまう作家泣かせな時代です。しかしこの作品はその進歩が身近になればなるほど作者の真意が浮き彫りになってくるという恐ろしい作品なんです。
 皆さん、2008年ってどんな感じだったか覚えていますか?リーマンショックが起こり、iPhone3G発売、GoogleがやっとChromeをリリースし、androidが搭載されたスマホが初めてこの世に生みだされ、SNSという存在がやっと社会でチラチラ見え始めたころです。
 その頃に書かれたSF小説が、十数年経った今でも何か出来事が起こるたびに引き合いに出されて
「うわっ、伊藤計劃コワ……」と言われているのです。コワ……。

 そんなこんなで『ハーモニー』のこと考えていたら、私が大学生の時に倫理学の講義の課題で、本作と尊厳死についてを絡めた駄文を弄したことがあったのを思い出しました。
 そこで、本作の最大の魅力といっても過言ではない、「自分の物の見方が変わると作品がガラッと変わって見える」という体験をしたよ、ということを主張しつつ『ハーモニー』のダイレクトマーケティングになればと、このクソレポートを放流しようと思います。

生命主義に則り、皆さんのステイホームを一分でも応援できたのなら幸いです。ハーモニーの世界を目指しましょう。

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【クソレポート注意報】

【はちゃめちゃにネタバレ注意です】


【倫理学とか法律とか法哲学とか文学的あれこれについて偉そうに語ってますが、小市民のたわごとなのでネット上のつよつよ文化人の皆さん、殴らないで……】


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1.はじめに

 00年代を代表するSF作家、伊藤計劃。夭折の彼が実際に作家として活動した期間は2年程度だが、その後に残した影響は計り知れない。
 その伊藤計劃の遺作であり、病院のベッドで書かれた『ハーモニー』は、死に瀕した彼の生命倫理に対する問いかけであると言われている。
 ここでは『ハーモニー』と日本尊厳死協会が出版している『新・私が決める尊厳死』を読んで学び、感じた事を記述する。

2.伊藤計劃『ハーモニー』あらすじ


・舞台は近未来。世界規模の戦争を経験した人類は、医療用ナノマシン等の先進的な医療技術によってあらゆる病気を克服し、生命を第一に据えた生命主義を標榜する医療福祉社会を形成するようになった。

・そこでは人々の身体は公共的なリソースとして捉えられ、社会のために健康・幸福であることが求められた。そして善意からの行動や社会奉仕が溢れる、温かな社会が出来上がっていた。

・その一方で若年層の自殺率は上昇。また為政者は人々がいつ非理性的な暴力性を発露して戦争の時代へ再び転落し、原始的無政府状態に陥るのではないかと危惧していた。

・そこで開発されたのが人類の体内にある医療用ナノマシンを介して人間の意志を制御する「ハーモニー・プログラム」だが、「人間の意識が消滅してしまう」(=哲学的ゾンビになる)という副作用が存在した。

・人類をみな哲学的ゾンビにすれば原始的無政府状態やあらゆる戦争・暴力・殺人そして自殺から人々は解放され、恐怖を感じることも無くなる。

⇒だがそれは本当に人間といえるのだろうか?ほんとうに人間としての尊厳を保っているのだろうか?

・本書では人間の尊厳を常に問いながらも、動物のあらゆる形質や性質はその進化や偶然によって獲得されたものだと語っている。

・眼であれ二足歩行であれ、より生存に有利である形質が残っていったに過ぎず、そして今は尾骶骨として名残を残すのみである尻尾のように、必要で無くなった形質はやがて消えてゆく定めにある。

・そして意識もまた進化の過程において獲得されたものであり、それだけが人間を人間たらしめているものといえるだろうか。

・また、必要でなくなった性質は時に病として現れる事がある。血液中に糖が多く溶けている形質は氷河期においては血液が凍結することを防いでいたが、現代では糖尿病としてしかとらえられていない。

・そして今、あらゆる病や怪我を克服した我々にとって、意識は戦争や殺人や自殺を引き起こすだけの、すでに不要で有害な器官なのではないか

・作中ではいくつかの事件よって人類が再び原始的無政府状態へ陥る中、主人公はその考えを受け入れた。そして人類から意識は消滅し、平和と調和が世界を包んだ。

・皆がまるで意識があるかのようにふるまって生活し、また多少のけんかなどは起こっても、実際は誰の中にも意識は存在せず、合理的な社会を運営するためだけに生きてゆく。そして世界は平和に続いてゆく。

3.私と尊厳死との出会い


 私は法学部法律学科の4年生である。安楽死は法律学においても大変議論の盛んな分野で、3年強の間にも刑法や医事法の授業において数回扱ったことがある。
 その講義の中では積極的安楽死から尊厳死まで各種の特徴や海外の法制度、実際の裁判例を扱ったものの、どれも漠然としていて実感に乏しかった。
 そんな中、昨年両親が日本尊厳死協会という団体に加盟し、団体が提案しているリビングウィルに署名をした。そのことがきっかけでより尊厳死について詳しく知ろうと考えるようになった。
 以下が日本尊厳死協会のリビングウィルである。

①「不治かつ末期での延命措置の中止」
②「十分な緩和医療の実施」
③「回復不能な遷延性意識障害(持続的植物状態)での生命維持装置の取りやめ」

 また、日本尊厳死協会は『新・私が決める尊厳死』において重要なのは終末期医療における自己決定権の確立であり、各々の人間が望む形で最期の時を迎える権利を法整備によって確立させることを目標にしていると述べている。
 この論理展開の下では自己決定権によって尊厳死だけではなく「耐えがたい苦痛が存在すること」をも要件とする消極的安楽死までを認めざるを得なくなると考えられる。
 またさらに解釈を拡張すれば、健康体であってもその自由意思によって自死を選ぶ積極的安楽死にまでその意義を認めざるを得なくなり、いわゆる「滑りやすい坂」論に陥ってしまうように思える。
 そのため現実に法制化をするのであればかなり厳密にその領域を限定したものにせざるを得ないと考えられるが、そのような茨の道であってもなお法整備によって守られる法益は大きく、そして倫理的にも大きな意味合いを持つのだと感じた。

4.『ハーモニー』と尊厳死


 私ははじめ、この『ハーモニー』は積極的安楽死の可否について語っているのだと考えていた。
 意識の消滅とはいわばいち人格としての思考能力、感受能力の喪失であり、脳死に等しい。そして脳死とは医療において人の死を意味する。(著者の伊藤計劃は32歳でこの世を去っているが、本作は末期肺がんで入院中に書き上げられた彼の遺作である。脳死状態等々に関してのインフォームドコンセントを伊藤計劃が受けていたの想像に難くない)。
 そして現在直面しているあらゆる問題を掟破り的に解決してしまう「意識の消失」、いわば形而上的な「死」を受け入れるかどうかという主人公の葛藤は、積極的安楽死を是とするかどうかの議論に他ならないと考えていた。

 しかしながら、昨年私の両親が「日本尊厳死協会」という協会に加入し、尊厳死に関するリビングウィルを作成したことをきっかけに、本作は死に瀕した作者が積極的安楽死ではなく尊厳死の是非について問うたものなのではないかと感じるようになった。

 本作において人類は一つの人格を持った人間であると捉えられる。その人間は意識という決定的な病巣を抱えており、それによって戦争・暴力・自殺といった不治の病に侵されている。思いやりや社会規範、倫理観念といった治療で闘病をしてはいるが、苦痛が伴う上に決して完治することはない。
 そして今、病は末期状態まで進んでしまい死が目の前に迫っている。そこで人類は闘病を辞め、苦痛を緩和しつつ知性生物としての尊厳を保った形で死する道(意識を喪失する)ことを選択する。いわば人類の総意としての自己決定権の発現だ。

 本作で幾度となく取り上げられる「人間の形」、そして「人間らしさ」とは単純な意識の在る無しを問題にしているのではなく、末期において人間がいかに自己決定を行い、望む形での最期を迎えられるかどうかという、その尊厳のことではないだろうか。

5.さいごに―――法律と倫理


 法律は現代社会における物理法則である。現代日本において商売や文学、政治に全く関わらずに生きてゆくことは可能だろうが、法治主義の近代国家に生きる以上、何人たりとも法律を無視することはできない。私が進学先に法律学科を選んだ理由はそこだ。
 しかしながら、この3年間強で法律を学んで痛感したことは、法律は社会規律の発現であっても、その根拠を必ずしも示すわけではないということだ。

 例えば「夫婦・婚約・内縁関係にある男女のどちらかが、配偶者以外の異性と自由意志で肉体関係を持つ」:「不貞行為」。これは民法770条1項で法廷離婚事由の一つと認められており(平たく言えば問答無用で離婚できる)、また民法709条・710条で不法行為に基づく損害賠償請求を行う事由ともなる(平たく言えば慰謝料等をぶん取ることが出来る)。
 しかし、そもそも「なぜ不貞行為が許されないのか」という問いに対しては、法律は答えを持っていない。そのような実質的法源を神の領域と呼ぶ法学者すらいる始末だ。

 その上、頑固で変化に乏しく偏屈なイメージのある法律そのものもまた、実務上はある程度柔軟な運用がなされていることも知った。「法律は現代社会の物理法則」などと大見得を切ったはいいものの、不変の法などと言うものは机上の空論に過ぎないことも痛感した。

 学部生ながら偉そうなことを言わせてもらえば、法律とは「世の中がこうあってほしい」「こうあるべきだ」という倫理観念の上に成り立っていると、この3年弱で強く感じた。その考えを持ちながら様々なトピックを法学と倫理学の両方向から学ぶことが出来たことを喜びに思う。

 今学期は就職活動の関係でどうしても欠席しなければならなないタイミングもあったが、卒業する前に文学部設置の倫理学に係わる授業を履修できたことは、いつか来たる決断の局面に向けて、大きな糧を得たと確信している。


6.参考文献


・伊藤計劃(2008年)『ハーモニー』、早川書房
・日本尊厳死協会(2013年)『新・私が決める尊厳死 「不治かつ末期」の具体的提案』、一般社団法人日本尊厳死協会

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