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二兎を追う者は一兎をも得ず_2020/9/27

考えすぎとはよく言われる。
このあいだも、会社の日報に(評価が思っていたより良くなかったことで悩んでいて)「仕事ができるとはどういうことなのかを考えてみる」と書いたら、上司から「そんな難しく考えんわ。」といかにも考えてなさそうなコメントがついていた。

今日は、10年来の知り合い(友人?)がキュレーションを務める展示会「二羽のウサギ(英語タイトル:Between Two Stools)」に伺った。
そもそもこれまで、美術というものにそこまで関心がなかった。
多趣味な父親は、東京にはいい美術館がたくさんあるからいくといいよ、といつも薦めてくれているけど、休みの日に一人で美術館にいこう、となったことは一度もない。
性格的に、美術館に並ぶ作品を全部見なければ、という意識が働くので義務的になってしまう。
美術作品をみても、自分にはこんな絵かけないな、作れないな、発想がそもそもないな、と作品よりもその作者のセンスや技術に感心するほうだった。

今回、「二羽のウサギ(英語タイトル:Between Two Stools)」をみて、美術に対する考え方がガラッと変わった。
私がこれまで知っていたのは、作られるものとしての美術、みられるものとしての美術だった。
実際には、いろんな側面があった。

作られるものとしての美術、みられるものとしての美術以外に、守られるものとしての美術、直されるものとしての美術、捨てられるものとしての美術、ただそこにある美術。

守るために良かれと思ってしたことが、もしかしたら傷つけることになっているかもしれない。自然に任せて放っておくことで、それが強さになり、味になるかもしれない。
どうなっていることが、美術にとって、価値なのか?

何がよくて何が間違っているのか?

人生においても、何か選択をするたびに、こうしなかったらいまごろは…?とふと考えてしまうけれども、どの選択肢も、おそらくよくて・間違っている。

それはこの世界に存在するもの何一つとして、一面的であるものがなく、多面的に捉えざるを得ない人間の想像力があるから。

人生を歩むうえで、答えのない問いがたくさんあることをあらかじめ知っておくことがいいと思う。親も先生も上司も先輩も占い師もだれも教えてくれない、だれも知らない答えを自分で考え、行動して見つける(というか決める)こと、それが人生だということにいつ気づくか。

そのことに気づいたときから、
誰の人生でもない、自分の人生が始まる。

《あとがき》
キュレーションという言葉は彼に会うまで知りませんでした。あたかも使い慣れているかのように書いているけど、ここ1か月くらいで知った言葉です。

なおちゃんと最後に会ってからまだ1か月半くらいしか経っていないことに驚きです。
そちらはどうですか?気候は過ごしやすいですか?ご飯はおいしいですか?
私は10月いっぱい、ニートします。とりあえず、本読んで映画みて、ご飯作って食べて、いろいろ蓄えるつもりです。最近は、ふとしたときに『この時間は一生戻ってこない、一瞬も無駄にできる時間なんてないぞ』と思うようになりました。成長?

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