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暗闇のエーテル(第3章 ファロス灯台)

 古ぼけた灯台はケーキに乗っている砂糖菓子のように小さな三角屋根の小屋から生えていた。ぴっぴは少し離れたところから眺めている。

「ほぉー。」

 そして呼吸を整えゆっくり扉の前まで歩くと背筋がぴんと緊張した。真っ直ぐ扉を見つめ、砂埃でカサカサになった声を無理矢理押し出した。

「ごめんくださぁい。」

 辺りはしんと静まり返り、月は薄い雲の間を出たり入ったりしている。気が抜けてしょんぼり肩を落としたが、灯台の周りに誰かいるかもしれないと思い直し歩いてみることにする。

 近くには大きな竃と、何かを焼いたであろう油のべったりついた網が立てかけてあった。微かに水の流れる音が聞こえる。音の方へ振り返ると少し離れたところにドラム缶が自立し、その上にはとりあえず間に合わせたであろう今にも外れそうなプラスチック製の配管からとうとうとお湯が注がれている。お湯はドラム缶から溢れ、周囲は地形にあわせて水たまりになっている。

「おみず!」

 引き寄せられるように駆け寄る。ドラム缶の前まで来ると毛布と筍を手から離し勢いよくばしゃばしゃと顔を洗う。冷えきった顔にお湯の熱さがじんじん伝わって来る。そして手で掬い口に運ぶと温泉の柔らかい味と少しだけ硫黄の香りがした。

 ちょっぴり元気になり、顔を服の袖でなんとなく拭った。毛布と筍の事はすっかり忘れ、身軽になったぴっぴはぽちぽちと扉の前に戻った。扉にぴたりと右耳を当て中の様子を窺うと、音が聞こえる。

「…。」

 今度は扉を叩いてみる。

コンコン…

 返事はない。

コンコンコン…

 勝手に開けてよいものか迷う。

「こわいひとがでてきたらどうしよう…。」

 しかしおなかの減りはとうの昔に限界を超えている。意を決してドアの取っ手を引き寄せる。ゆっくり開けると音がはっきり耳に届く。

「さぁ芝の状態は非常にいいですよ。」

 音はラジオの競馬中継だ。顔をそっとドアの隙間に差し込むと飽和状態だった酒と煙草の臭いが煙と共にもうもうと外へと溢れ出す。

「んん〜、くさいぃ…」

 中は薄暗く、壁から猫の尻尾のように飛び出した裸のタングステン電球だけが弱々しく点いていた。その真下には日捲り暦が掛かっている。

八月六日

 こんなに夜が寒いのに、今は八月なのだと不思議に思う。気を取り直し、再び意識を室内へと戻す。部屋の中央には空色でざっくりしたチェック柄クロスがかかったダイニングテーブル、その上にラジオ、飲みかけのラキアと吸い殻の詰まった灰皿、そして馬券が乱雑に置いてある。奥には古ぼけたブラウン管のテレビに帽子のようなうさぎの耳型アンテナが乗っている。テレビ画面には小さくぴっぴの姿が映り込んでいる。

「本日の解説は金子さんです、金子さん…」

 ラジオは鳴り続けている。誰もいないのを確認するとドアを更に開き忍び込む。冷たいフローリングに泥だらけの足跡をひたひたとつけ、ダイニングテーブルの前まで行くと左右に部屋があった。右の部屋は寝室だ。窓際に簡素なベッドが一つ置いてある。ぴっぴは回れ右をすると、左の部屋に行ってみる。そこには無線機や音波信号器が所狭しと置かれている。

 ダイニングルームに戻ると暗闇に凹凸を感じる。近づいてみると椅子の後ろから螺旋階段が空に向かい伸びている。美しい漆黒の手すりが、ほんのわずかに届いている灯台から漏れる光で艶がかっている。

「そうか、ここからのぼれるんですね。」

 真下まで来ると螺旋状にどこまでも続く階段を見つめた。

「よし。」

 一段、また一段と急な造りの階段を上ると、壁面には一周ごとに同じ位置に縦長の小さな窓を見つけた。ぴっぴは一周する度に窓の外が明るく輝いてゆくのが嬉しくて心がワクワクした。

 遂に最上階に辿り着き、表に出るとそこは灯台を取り囲むようなテラスだった。強い風が髪の間をバサバサと通り抜ける。振り返ると光源まで行くための簡素な梯子が架かっていた。

 ぴっぴは光の正面まで来ると真っ直ぐ前を見た。灯台の光が頭の上から暗闇に吸い込まれている。手すりに凭れ掛かり見下ろすと眼下に暗い砂地が広がる。そこには光の方向に沿って消しゴムのような無数の小型漁船が砂に埋まっていた。その列は先に見える桟橋まで続き、街灯が薄ぼんやりと船を照らしている。奥には巨大な埠頭があり、巨大な赤白のガントリークレーンが四つ見える。側には無数のコンテナがお菓子の箱のように三から五個ずつ積み上げられ、鉄道の線路らしき枕木も見受けられる。更に先を見ると遠くの左側に白い光、右側に赤い光が小さくゆっくりと明滅していた。どうやらそこが港の入り口のようだ。しかし肝心の海は何処にも見えなかった。

「すなのうえをふねがはしるのかしらん。」

 素朴な疑問を抱きながらテラスを一周し、あちこち手すりに凭れ掛かると下を眺めた。そうこうしているうちに身体がいよいよ冷えて来た。

「つづきはまたあかるくなってからにします。」

 元来た階段を降りてゆく。一番下まで降りると、先ほどよりも部屋が明るくなっている。

「おや?おきゃくさまですか?」

 振り返ると視線の先に暑苦しい男が立っている。目が合うとその場で立ち止まる。競馬中継が相変わらず騒がしい。

「本日の勝敗です。馬連、アンポンタンスキー…」

「おきゃくさまは貴様だろウ。」

 男は競馬中継をかき消す程の大声で怒鳴りつける。 ぴっぴが歩き回った床はそこら中足跡だらけで汚れていたため、薄汚い姿に腹を立てていた。驚いたぴっぴは何から話せばいいのか解らない。

「俺の灯台を汚すんじゃネェッ。」

 ぴっぴはその場につつかれた海鼠のように小さく固まった。何か話さなければいけない、ここまでの事を灯台守に話そうと思った。原っぱが水で埋まってアカデミックシティを目指したら煙に飛ばされて砂になった。意味不明な事を頭の中で瞬間的に並べるが、どうにも巧く説明できそうになかったが口を突いて出た言葉は

「…おなかがへっています。」

 だった。灯台守はそれを聞くと口をあんぐり開けて言葉を返そうとしたが、ゆっくり顎を引く。

「とりあえず俺は便所に行くからそこに座って待ってロ。逃げるんじゃネェゾ。」

 そうして部屋の片隅にある小さな扉を開き、ぶっきらぼうに閉めた。

ドパン!

 ぴっぴは言われた通り螺旋階段の一番下のステップにそっと座り、手すりを左手で掴む。カタカタ震えながら手すりを支える棒と棒の間からダイニングテーブルに目を移す。先ほどまでなかった美味しそうな烏賊の薫製が皿に乗っているのが見えた。

「ふぅーーー。」

 トイレから声がする。灯台守は気持ち良さそうに用を足している。ぴっぴはごくりと唾を飲み込んだ。悪いとも思ったが空腹には勝てず、立ち上がると足音を立てないように薫製に近づく。そして目の前まで来ると烏賊の足を十本まとめてぎゅっと掴み取り、すぐさま頭からかぶりつくともぐもぐと食べ始めた。

 薫製は思いのほか固かった。仄かにオリーブオイルの香りがする。ぴっぴはやっと食べ物にありつけた幸せを噛みしめながらブッチリ食いちぎってはもぐもぐと食べ、ごくりと飲み込むとまた頭をブッチリと食いちぎる。空腹を満たそうとする欲望が烏賊を次々と飲み込ませた。そうしてあれよあれよと言う間に上半身を失い、後は足だけになったその時、トイレの扉が開く。

ドガン!!

 出て来た灯台守はぴっぴが螺旋階段にいないのを確認するとダイニングテーブルを睨み、皿の上の烏賊がなくなっていることに気づいた。

「貴様、俺のつまみを食べたナ。」

 恐ろしさの余り振り返ることも出来ない。今まさに現行犯逮捕されようとしている銃口を向けられた犯人のように烏賊の足を持った右手をゆっくり頭の高さまで上げると口の中にある烏賊をごくりと飲み込んだ。

「すみません…。」

 怯えながら小さな声が出た。男は不機嫌そうにぴっぴの目の前までくるとラジオのスイッチを切った。次に馬券をくしゃくしゃと丸め、ゴミ箱に投げ入れる。そして飲みかけのラキアの瓶を手に取りごくごくと飲み干した。

 ぴっぴは下を向いたまま目線だけを灯台守に移し、顔を確認する。黒くて固くチリチリに丸まった髪の毛が肩まで伸び髭だか髪だか判らない。がっしりと潰したような体格は力の強さを物語っている。肌は浅黒く、鼻と頬は日に焼けて赤く、よりによって鼻息が荒い。

 ぴっぴはこの狩猟民族風の男に食われてしまうのだと確信した。灯台守はラキアの瓶を持ったまま、口元を腕で拭うと、瓶をドン!とテーブルに置く。それから突然現れたこの得体のしれない奴をどうしてやろうと考えているのかいないのか暫くそのままの体勢でいたが、ぴっぴの顔をグワンと覗き込む。灯台守の目は透き通る鼈甲色だ。

「うわぎゃぁぁぁあぁ!」

 ぴっぴは目を合わせたまま叫ぶ。

「うるせェヨ。」

 ポカリと頭を軽く叩かれると、ぴっぴは叩かれた頭を烏賊ごと両手で押さえた。消えてしまいたいくらいの恐ろしさに目ぎゅっと瞑る。すると被さるような灯台守の影が移動する。木製の椅子を引いて腰掛けると何かを空で考え、暫くするとその答えが出た。にやりと口元を緩めるとぴっぴを見て小さくため息をつく。

「おまえ、泊めてやろうカ?」

 灯台守の意外な言葉にぴっぴは顔を上げる。

「へ?…ぴっぴをたべるんじゃないの?」

 灯台守は変な顔をする。

「人を食べるヤツがあるカ。」

 そう言うと先ほどまでの厳つい顔を緩め、ぴっぴに黄色いニコチンだらけの歯を見せた。上の前歯がない。

「ただし、明日からレンズを造るんダ。」

 何を言っているのかわからない。しかし、食べられない事だけは理解したので拍子抜けし、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。

「おまえ、なんなんダ一体。」

 そして煙草に火をつけると、フーッとぴっぴの頭上目掛けて煙を吹く。

「あわ、あ、ありがとうございます。」

 引きつりながらも口を横に開き、精一杯の顔で灯台守に白い歯を見せ微笑んで見せる。それから灯台守の拵えたカチャトラをお腹一杯食べ、家の前にあったドラム缶風呂に入った。風呂の中で疲れを癒し、湯煙の向こうに見える満点の星空をぼうっと眺めた。遠くで船の分厚い汽笛が聞こえる。風呂から出る時、先ほど落とした筍に目が行く。

「なんだ、これハ。」

 灯台守は筍を見た事がなかった。言葉の通じない外国人のように難しい顔をする。明日ご馳走すると約束し、借りた寝袋にうきうき入った。夜が更けると風は強まり砂が窓硝子に叩き付ける。その晩は夢も見ず、ぐっすりと眠った。

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