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暗闇のエーテル (第1章 火事)

二〇三二年 四月。
シロツメクサの花がパツパツ咲き、白い束がそこいらじゅうにボン、ボン、と生えている。風が心地よい春の朝、ぴっぴはのっぱらの真ん中で居眠りをしている。

「すーぴー すーぴー」

 鼻を鳴らしながら微睡みつつ、夢の中で白とグレープフルーツ色の間を行ったり来たり。顔はライオンの鬣のように花で縁取られている。瞼の裏側にチカチカと丸い蛍光色の残像が行ったり来たり現れたり消えたりしている。

「うー…むぐむぐ…。」

 意識が戻ると大きな目をぱちりと開き、かっきり九十度身体を起こした。ぼさぼさに寝癖のついた栗色の髪。反動で首にかけている婦人用のチューリップハットがだらりと胸の前に周り込むと勢いよく右、左、右と頭を動かし何かを探している。それから右足の少し前、シロツメクサの間に隠れている棒っきれを発見すると両足を三角に折り、四つん這いで側まで行く。右手に取りあげるとすっくと立ち上がった。

 次に地面に棒っきれを突き立て、ぐりぐりと眠っていた場所を中心に円を掘り始める。赤土は草に埋もれ、掘った溝を見る事は出来ない。丸く囲い終わると棒っきれを放り投げ、再び円の中心にころんと仰向けに寝転がる。目を開いたまま両手を胸の上で組み、大きく深呼吸をした。

 鳶が二羽 ピーヨロロー… 

 虹色の無限大記号を遥か上空に描き、ふわりと溶けるように消えた。

 ぴっぴは鳶のいた空の一点を見つめている。顔の上を雲の影が通り過ぎて行く。

 そっと目を閉じる。

 どこからともなく透明の水がじわりじわりと染みだし、あっという間にシロツメクサを葉ごと飲み込んでゆく。瞬く間に白い花の束しか見えなくなった。ぴっぴは再び目を開き、真上を向いたままぷかぷかと発泡スチロールのように浮かび上がると、遊園地のコーヒーカップのようにくるりくるりと旋回している。風はいつの間にか止んでいた。

 やがて水流が治まると、ぴっぴは一所に留まり浮かんでいる。ぼんやり空を眺めていたがゆっくり右手を空に翳し、掌を顔に向けた。ゆっくり親指を折り曲げる。人差し指、中指、薬指を曲げたところで口をぽっかり丸く開け、はっきりとした口調で呟いた。

「よんさいになりました。」

 見渡す限り水で覆われ、境界線のない池となった。水面は光色に輝き、ぴっぴは碇のない小舟のように、宛てもなく浮いている。なだらかに湾曲しながら空と水面とを隔てる水平線。空気層に阻まれながらも霞の向こう、空と水との分かれ目に針の頭ほどの出っ張りがぼんやりと姿を現す。その出っ張りはしばらくすると親指ほどの大きさに膨らみ、尚も膨張し続ける。小さく栗の皮が擦れるような音がリズミカルに近づいてくる。時折出っ張りのあちらこちらがチカリチカリと瞬間的に輝きながら、音に合わせて上下する。やがてこちら側まで来ると、全身を銀色に包まれた人の輪郭が現れた。すぐ側まで来ると息をきらせて立ち止まる。

 消防士だ。

「いやぁどうもすみません。隣の街で大規模火災がありまして。水をかけて消そうと思ったのですが、生憎車からホースが外れてしまいました。ここいら一帯水浸しになってしまったんです。復旧作業にあたっていますので、今しばらくお待ちください。」

 ぴっぴは聞いているのかいないのか、相も変わらず右手を眺めている。消防士は返事がないので肩を竦め、持っていたホースで水を掃除機のように吸い上げ始めた。

 ズギョギョゴゴゴゴゴーーーーー

 お風呂の栓に勢いよく水が流れ込むような音がする。ぴっぴは右手を降ろすと消防士の方を向く。案の定バランスを崩すと水中へと沈んだ。水中でぴっぴはあたふたと手足を動かしたが、シロツメクサの花が足の裏にふわふわと感じるので直ぐさまそれを踏みつけ立ち上がる。全身ずぶ濡れになり身体に纏わりつく水がぽつぽつと落ちる音だけが間近に聞こえる。俯くと水面に映る自分の顔が見える。幼い顔がゆらゆらと水面に映っていて、顔はプリズムを通して観ているように虹色に輝いている。消防士の方へ向き直り真後ろまでざぶざぶ近づいて行くと、耳元めがけて話しかける。

「ところでしょうぼうしさん、かじのあったまちはなんていうんでしょか。」

 声に気づいた消防士はぴっぴの方を向き、口を覆っている重厚な銀色マスクを取ると

「アカデミックシティですよ。」

 と答えた。

(アカデミックシティ!)

 その名前を頭の中で反芻し、ぴっぴの顔は輝いた。

「それはどんなところですか。」

続けて質問をすると消防士は一寸考え、答える。

「我々が想像出来ないくらい頭のよい人たちが集まっているところです。私達が考える事であれば、大抵は答えてくださるでしょう。」

 それを聞くといよいよ嬉しくなった。消防士は返事がないので首を傾げ、作業を再会する。ぴっぴは早速その場で水に潜る。水面が大きく抉れ、やがて無数の輪がぴっぴから外側に向かって広がり消えて行く。白いチューリップハットだけが水面上に浮かんでいる。帽子は消防士のそばをうろうろと動きまわり、ぴっぴが元いた場所まで来るとトプンッと沈んだ。

 波紋が一つ、二つと広がり、ぷつぷつと小さな泡が弾けたかと思うと直ぐさま水面が隆起し頭が出て来た。両手に水色の保温付き水筒を持っている。そして嬉しそうに水筒を見つめたかと思うと肩にかけ振り返り、そろそろと足に纏わりつく水を押しのけ消防士の方へ戻って行く。真後ろまで来ると一生懸命吸い上げているホースの上によじ登り、テンテンとホースの上を駈けて行く。消防士はぴっぴがホースに乗っているとは気づかず、吸い込みが良くなったり悪くなったりするのを不思議に思いながらホースの口を覗き見ている。

 しばらく行くと消防士は見えなくなった。アカデミックシティへの期待に胸を膨らませ、軽くスキップしながらホースの上をぽよんぽよんと弾んでいる。

「あったしたったらみえたったー。あっしたたったらひえたっぁー。」

 上機嫌で歌を歌いながら水筒をブランブランと大きく揺らし、上を向いて弾む。時折つがいの燕が交互に目の前を飛び去り、鼻をかすめてゆく。

「は、は、はくしょん!!」

 燕の羽がこそばゆくてクシャミがでる。その振動でホースは吊り橋のようにぐわんぐわんと揺れる。

「お、おわー」

 サーカスの綱渡りのように片足ずつバランスをとり体勢を立て直すと、ふぅと一息つき、再び元気よくスキップを始める。


・・・

 だいぶ遠くまで来た。ぴっぴは立ち止まり、蛇の背中のようにごろんごろんと水を吸い上げ続けているホースの上で両足を揃え鼻の頭を掻く。先ほどずぶ濡れになった服はすっかり乾いており、ズボンの裾をたくし上げ、ホースを跨ぐように腰掛けると、膝から下を水に浸す。

 ひんやりと冷たい。次に持って来た水筒の蓋を回して取り、さらに内側にある栓をぐるぐる回していると、近くで音がする。

カラカラカラ…ポポチョン

 小石が数個水の中へと落ちていく。顔を音の方へと向ける。

「やれやれ、今年はあまり筍が生えておらんのぅ。」

 ぴっぴの横には背の低いメロンパン型の山があった。亀の甲羅のように水中から山頂部分だけが出ており、その中心から竹が放射状に生えている。カサカサと竹薮は不自然に動くと、中から白い髭を蓄えた老人が現れた。

 背中には篭を背負い、その中には鍬と小さな筍が一つ入っている。ぴっぴは老人の姿を確認すると再び水筒に目を移し、蓋に紅茶を注ぐ。暖かい湯気が水筒から立ち上る。

「いい香りがするのぅ、わしにも一口くれんか。四月の大水で体がすっかり冷えてしまったのだよ。」

 どうしようか考えたが、コップを見つめながら語りかける。

「どちらさまですか。」

 老人は竹籠をメロンパンの上に降ろすと名乗る。

「わし?わしはダンキー爺さんじゃよ。」

 ぴっぴは驚く。

「ダンキー!なんていいなまえなんでしょ。」

 ダンキー爺さんという名前が気に入った。そこでまず一口ごくりと飲むと、蓋を渡そうと手を伸ばした。

「ありがとよ。」

 老人は口髭の間にある菱形の小さな口で紅茶をごくりと飲んだ。ぴっぴは青空を見て嬉しそうな顔をする。

「ダンキーさん、アカデミックシティまではどのくらいありますか。」

 すると老人はホースの遥か先の方角を薄目で見つめる。

「ざっと半月はかかるぞ。なんじゃ、おまえはアカデミックシティにいくのか。」

 一口の筈が会話の合間にごくごく紅茶を飲んでいる。

「そこにいけば、あたまのいいひとがいるとおもいまして。」

 そう言いながら両足を水からあげると、ホースの上に二つとも真っ直ぐ並べ、乾かす事にした。

「ほう、ではお前は頭のいい人に何を尋ねたいんじゃ?」

 蓋を口にあてくいっと飲む。結局老人は蓋の紅茶を全て飲み干してしまった。

「もののはじっこがにじいろなのは、どうしてだとおもいますか?」

 唐突な質問に、老人は銀色の両眉をへの字にする。そして怪訝な顔でぴっぴを見つめる。老人が返事をしないので、ぴっぴは不思議に思いながらも足が乾いたかを右手で触り、乾いている事を確認すると再び水に浸した。

(あたりまえのことをきいてはいけないのかしら。)

 老人の方へ顔を向けるとそのまま右手を差し出した。

「まだのみますか。」

 老人が小さな手に蓋を乗せると、左手に持っている水筒から再び紅茶を注ぎいれる。

コポコポコポコポ…

 再びなみなみと紅茶を蓋に注ぐと、ちょっと量を減らそうとしてジュルジュル表面を啜り

「ところでいまなんどきですか。」

 徐に訊ねる。老人は着ていたアウトドア用ベストの内ポケットから銀色の古めかしい懐中時計を取り出す。時計の表面には美しいロココ調の曲線が彫金してある。開くと目に見えないほど高速で回り続けている秒針に従い、分針、時針が規則正しく時を刻んでいる。そこには日付を示すローラーも付いている。老人は目を顰めながら見つめる。

「ああ、今は…そうさな。丁度六月になるところじゃよ。」

 そしてぴっぴの方へ向き直ると、遥か遠くに先ほどまではなかった黒い影が見える。慌てて水面に目を落とすと太陽は南中位置にあり、水の底までくっきり見渡せる。水中にはホースに対し直角に線路が通っており、メロンパン山の山肌に沿って老人の遥か後ろまで伸びている。

汽笛が聞こえる。

 再び機関車の方を向き直すと、既にぴっぴの真後ろまで迫っていた。老人は口を開け何か言葉を発したようだったが、二人はあっという間に灰色の煙に包まれる。機関車は瞬く間に走り去り、煙が空気と馴染んだ時には二人の姿は消えていた。ぺしゃんこになったホースだけが、虚しく水面に浮かんでいた。


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