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場を選ぶ

 今日、子供会を脱会することにした。

 このインパクトは、人によってかなり異なると思う。
 私にとっては、そこそこ衝撃的な出来事だ。

 というのも、地域の繋がりが希薄といわれる昨今、私は、それはやっぱり大事だし、繋がりはあった方が良い派だった。だから、役員なども引き受けようと思っていたし、忙しくて誰もできないなら私が引き受けようくらいな意気込みだったのだから、自分的にも理念に反するというか、ちょっと責任を放棄したような気持ちでいる。
 
 地域によって子供会の在り方は異なると思う。入っているのが当たり前なので入ってないと変わり者扱いされる、というところもあれば、働いている保護者が多いのでみんなが入っているわけではない、などなど、地域差があると想像している。

 近所の人から子の素行を注意されてから、地域とは距離をおいているので正確なところは知らないが、私の暮らす地域は後者だと思われる。

 なので、悪目立ちしたくない反面、そこまで異分子扱いされないと踏んで、思い切って脱会を決めた。
 
 感想は、はっきり言って楽になった。これで、私たちのことを良く思っていない人と関わらなくて済むし、それを考えるだけで不愉快にならなくて済むし、役員が回ってこないから自分の子に専念できる。

 一方で、何かあれば子供会に入っていない人として扱われることを覚悟しなくてはならない、とも思っている。地域との繋がりがない、ということは、自分の子の特性を知ってもらう機会もないということだ。子が、自分の気持ちを上手く表現できないために、人に手を出すとか、悪口を言うとか、そういうことが起こった時、私たちを理解してくれる味方は誰もいないということだ。
(もっとも、子のそうした性質を理解してもらいたいという想いで、地域のイベントに参加し、近所の子を家に招きもしたが、今思えば自分のダメージを大きくしただけだった。理解してもらえると、他人に期待しすぎたことを反省している)

 そんな中、こんな記事を読んだ。

 子どもが社会不適合ぎみで、その責任を親である自分に感じてしまっている人には、ぜひ読んでもらいたい。私は、この記事の筆者にとても勇気づけられた。こういう意見を持っている方が社会のどこかに居てくれるなら、外に出るのも怖くない。

 今の子どもたちを取り巻く環境は、まだまだ”家庭”を基盤としたもので、子供会やPTAなども、親の手で運営されることを前提としている。親は、働きながら、介護しながら、その他、書き尽くせないほどの個人的事情を抱えながら、子どもをある意味人質に取られた状態で、そうした活動に参加することを強いられている。
 
 私が地域のそうした活動を運営している方々、参加している方々を非難しているとは思わないでほしい。運営している人の苦労は、以前、私も運営サイドだったのでよく知っている。参加者のために、善意だけで活動している人たちだと思う。参加している人たち、そして私を非難している人にしたって、子どもたちを守るため(事件事故などから、そして参加しないことによる世間の目から)そうした活動をしなければならないのだから。

 これから子どもを持つ人に、私は希望だけ持っていてもらいたい。こうしたネガティブな印象は、私が発信するまでもなく、そこら中に溢れている。でも、これだけは言いたい。子育てに希望を持ち続けるために、無理をしてまで公共の活動に参加しないでほしい。そっと距離をおいて、親子が安心できる場所で生活してほしい。幸い、SNSの発達で、そういう居場所は見つけやすくなっている。

 子育てに関わる活動を、当事者だけでやっていくのは限界がある。PTAなど、役員をやった人からすれば、やらない人は楽をしていると思うだろうし、やらない人からすれば、やった人にはそれだけのゆとりがあった、という気持ちだろうか。正直、そんなところではないかと思う。

 といって、当事者じゃなければ誰がやる?という議論になりそうだが、それは私としても引き続き考えていかなければならないと思っている。

 私は、この場で決意表明したい。自分の子の手が離れた暁には、喜んでファミリーサポートでもなんでもいいから、親子を支える活動をしようではないか。

 でも今は、もう少しだけ、安心できる場所に引きこもっていたい。

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