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置かれた場所で咲くということについての意見

 「置かれた場所で咲きなさい」とかいう言葉があるけれど、それが簡単にできたら苦労しないという現実がある。いや、個人的な見解かも知れないけれど、おそらくそれは到底、無理なことなんじゃないだろうか。置かれた場所というのは結局は現状に妥協してしまうことを暗に意味するような気がしないでもないのだ。
 統合失調症になる前、私は地方国立大学に通っている普通の学生だった。別に他の学生より成績優秀だったわけでもなく、将来有望だったわけではないが、できれば、その統合失調症になる前の段階に戻ってやり直したいと思うのは自然なことだ。しかしながら、それが到底できないことなので、結局、今からの人生を生きていかざるを得ない。
 そこで今の自分の置かれた現状を受け入れ、軌道修正をはかり人生を再構築していく必要があるが、実際問題、それがそこそこ難しいことに気がついた。
 やはり、人間であるからには感情というものがあるのだ。正直なところ、統合失調症は負のものに過ぎす、それを肯定的には捉える気にはならないし、病気になった過去から脱却することは到底難しい。
 今やっている食器洗いや残飯処理、清掃の仕事が病院の裏方ながらもいろいろな人の役に立っているという自信はあると思う。しかし、だからといってそれでそれが自分の満足できる人生かといわれたら、何かしらのもやもやがあるような気がしてならない。
 それでももはや、統合失調症の発病からおよそ20年であり、他人や家族からはいくらでも現状を受け入れるように言われるように思える。
 現実は自分の思うより難しい…。後悔や無念は計り知れなく、捨て切るのはなかなかなのである。もしかしたら、障害や現状を無理に受け入れない方が良いのではないか。受け入れるとは何であるのだろうか。果たして置かれた場所で生きていけるようになればラクになれるのであろうか。

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