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脳内ARの日々も早初七日に

どう書いていいか、そもそも書くことなのか、かなり迷った。
でもnoteにすることで自分の心の整理も期待できそうに思えた。
だから初七日の今日、書いてみる。

※以下、愛猫を病気で亡くした話を書きます。
 受け止めることに抵抗のある方は、どうぞ読むのをおやめください。


#折り合いをつけていく

愛猫が悪性リンパ腫と診断されてから約1年、
毎週抗がん剤を打ちながら一緒に寛解を目指してきた。

お正月あたりまでは比較的元気だったが、その後急激に食欲が落ち始め、
ちゅーるのようなペースト食を口に直接入れなければ自発的に摂らなくなり、
やがて強制的にでも全く受け付けてくれなくなってしまった。

水だけは少量ながら飲み続けてくれたので、
1月19日の午後に薄めたポカリを注射器で3口ほどあげたら、
美味しそうに舐める姿に喜ぶも、それが最後の食となり、
その夜にはたったの6歳で逝ってしまった。

家族という意味においてはもはや猫以上の存在であり、
ここまで身近な人を看取った経験のない僕にとって、
彼の死は、1週間経った今も計り知れない悲しみと喪失感をもたらしている。

つい定期的に猫トイレの使用状況を確認してしまうし、
定時にごはんを置いてあげない自分はまだ許せない。

足元を見ては、机の上を見ては、窓際を見てはそこに彼を重ね、
脳内ARがフル稼働な日々を過ごしてしまう。

ただ、その辛い感情の横には、
少しだけ希望とか未来みたいなものが備わっていることを知り始めた。

続けさせてしまった注射や投薬から彼を開放してあげることができた。
それはきっと良いことだ。

一緒に闘った僕らも、疲労の自覚が如何に麻痺していたかとゾッとする。
どこかずっと気を張り、体も緊張状態で、眠りも浅かったからだろう。
とても久しぶりに全ての力を抜くことができている。

今はまだとても悲しい。
でも不思議と「改めて頑張っていこう」とも思えている。
一つの時代が終わり、新しい生活が始まる。

死は受け入れ難いが、少しずつ馴染ませていく経験は、
前向きな力を芽生えさせるプログラムにもなっているらしい。

だから人の歴史は幾多の絶望に負けず、
ここまで続いてきたのかもしれない、と思った。

物事の意味は、加えるものではなくてたぶん最初からある。
ただ受け手の準備ができないと、それが意味には見えない。
物事の意味は、夢中で取り組む間は分かりにくく、
やめることができた時、労うように輪郭が鮮明になる。
真剣に取り組んだ物事ほど意味は鮮明に残り、
取り出せるほど鮮明に残せたものを意味と呼んで折り合いをつける。
でもそうなら、最後まで意味なんかに気付かないのも幸せかもしれない。

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