高度経済成長分析(簡易版)
日本の1960年代の高度経済成長は「投資が投資を呼ぶ」という言葉の通り、国内の民間設備投資によって高度経済成長してきた。
しかし、1964年10月から不況に陥る。
この不況により、山陽特殊製鋼の倒産や山一證券の経営が行き詰まり日銀から特別融資を受けるなど「証券恐慌」に発展した。
不況はおよそ一年ほど続いた。
不況から好転できたのは財政支出と輸出の影響だった。
1965年11月に佐藤栄作内閣は一般会計における赤字国債の発行を閣議決定した。その額は2590億円。それまでの日本はドッジラインから続く均衡財政主義からの転換だった。(ガリオア資金、エロア資金など対外借り入れはありましたけどね)
輸出額は1965年の85億ドルから71年には240億ドルになり、その内訳は重化学工業製品が62%から75%に増大。
輸出と財政による成長へと転換したが、貿易摩擦の問題が生じた。
日米との間で鉄鋼摩擦や、自動車、半導体での摩擦が生じ、結果的には輸出自主規制にて終わる。
1981年に誕生したレーガン政権の自動車産業救済政策により、日本政府は対米輸出を抑える自主規制措置を取ることになり、半導体は「日米半導体協定」によって決着する。
輸出の増加により日本は貿易黒字が定着し1971年の外貨準備高は、西ドイツ、アメリカに続く世界第三位となる。現在は一位が中国で、日本は二位である。この同年にニクソン声明(金ドル交換停止)によって国際通貨不安が高まり、さらに同年12月のスミソニアン合意」により、1ドル360円の固定相場から308円へと切り上げられた。その二年後の1973年にはヨーロッパ通貨危機とアメリカのドル切り下げの発表により変動為替相場制へと移行する。この時には1ドル=264円まで上昇した。
このドルショックに追い打ちをかけるかのようにオイル・ショックがやってくる。
1973年第四次中東戦争の勃発により、アラブ産油国は対イスラエル制裁のため、原油公示価格の大幅引き上げ、原油生産削減、非友好国への輸出禁止を実施。石油依存体質であった日本経済は大きな打撃を受ける。
日本経済は「狂乱物価」を迎え、前年比37%のインフレーションに突入、これに対し、物価安定のために総需要抑制のため、緊縮財政と金融引き締めを行い、スタグフレーションに突入する。
しかし、この状況でも輸出額は増え1973年の369億ドルから79年には1000億ドルまで上昇する。主に重化学工業製品が占めた。これを可能にしたのが、徹底した合理化による労働生産性の上昇、コスト引き下げによる輸出単価の切り下げなどであった。
前述した貿易摩擦はこのようにして生じたものである。
貿易黒字の多くを対米黒字が占め70%を占めている。アメリカ側の貿易赤字の40%が対日赤字であった。その結果、1985年には日本の対外純資産は1298億ドルと世界最大の債権国家へと至る。
これにはアメリカ側の背景もある。スタグフレーションによりそれまでの、新古典派総合のマクロ経済政策から、シカゴ学派のマネタリズムへと移っていく。
マネタリズムとは、長期的には貨幣量のみが物価水準を決定し、貨幣量の増加率がインフレ率を決定するという古典派の考えを復活させ、インフレ率の適応的期待をフィリップス曲線の枠組みに組み込むモデルを構築した。インフレ期待が正しい場合、フィリップス曲線は垂直となり、唯一の失業率である自然失業率が実現し、これがあらゆる安定したインフレ率と整合的であると示す。これにより、自然失業率での安定したインフレをもたらす安定的な貨幣の増加は、金融政策における最善の方策となる。したがって、政府は失業率を自然失業率以下に押し下げるために決して景気刺激策をとるべきではないという主張が導かれる。
マネタリズムの代表的な論者としてミルトン・フリードマンがいる。マクロ経済理論は基本的に論者の思想背景が強く影響を与える。フリードマンの自由主義は本質的に古典的であり、個人主義に根差し、国家を信用しないものである。
1979年10月にアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)は政策運営方針をマネタリズムに寄せた。
それまでの運営方針は例外はあるものの「景気循環のその時の方向に逆らう」というものである。すなわち、理事会がインフレ懸念の増大を判断する場合には、利子率を引き上げ経済の成長率は減速される。こうした政策が実際に国内総生産(GDP)の減少という景気後退をもたらしたとき、FRBは利子率の低下を容認し、それゆえ景気の回復と拡大を容易にするという金融緩和政策でこれに対処した。
このやり方に対し論争が起こった、マネタリストは利子率の安定は好景気、不景気を加速させることになると主張した。もし経済と貨幣需要が急速に拡大しているならば、十分な銀行準備を提供してフェデラル・ファンド・レートを安定させる政策は、貨幣需要のあらゆる増大に応じる必要があるだろう。反対に景気後退期には、フェデラル・ファンド・レートを安定化させる政策は、連邦準備制度が「景気の後退を後追いする」ことを意味するであろう。原則として連邦公開市場委員会は、利子率の目標値を急激に上下に変化させ、景気循環を打ち消すような政策をとることができるが、マネタリストは委員会が実際にはそのようにはできないであろう、と主張する。
さらに当局が迅速かつ先を見越して行動するとしても、拡張的または緊縮的な政策の実施と、その効果が現れるまでのラグは長く、また一定ではない。しばしばその効果はあまりにも遅く生じる。利子率の引き下げにより景気下降を反転させることを意図した政策は、結局はインフレ的な拡張を加速することになるし、またインフレの抑制を目的とした政策は結局は景気後退を悪化させることになるであろう。こうした理由のすべてにより、マネタリストは、貨幣の増加を安定化させる政策は、需要増大の変動を最初の発生時から防ぐ傾向があるためにより一層有効であろうと述べた。
官僚たちはマネタリストの議論に懐疑的であった。それは以下三つの理由である。
第一に、彼らはフェデラル・ファンド・レートが公開市場操作により、日々、正確に管理可能であることを知っていたし、さらに公開市場操作から貨幣創造までの関係がそれほど規則正しいものではないことも知っていた。貨幣供給のデータは週単位で収集されるにすぎない、レートは分単位の情報が手に入る。それゆえ、利子率の管理は可能だが、貨幣供給の管理は動く目標を追跡するようなんものである。
第二に、実証研究における貨幣供給の定義が極めて不正確であり、マネタリストの中でもM1であるのかM2であるのか見解が分かれている。
最後に、貨幣量の増加とGDPの成長、あるいは貨幣と物価の関係が、マネタリストが信じるほど強固なものではないということである。グッドハートの法則(計量経済学的な関係を政策として用いる場合、その関係は常に変化する)という警告が中央銀行関係者によみがえった。
こうした懐疑の中で、マネタリストと議会のリベラル派との提携の動きが起きた。
2つの銀行委員会のリーダーである下院のヘンリー・ルースと上院のウィリアム・プロクシマイヤーは、連邦準備制度の運営を取り囲む秘密主義によって挫折させられ、議会は現在の政策に関する日常的な情報さえ入手できなかった。
連邦準備制度理事会議長(アーサー・F・バーンズ)が出席した議会の公聴会は、利子率の将来の動きに関する公的情報の公表は、激しい投機と金融の混乱を招くだろうという理由で、しっかりと防御された言い逃れと疑似妨害による悪名高き公聴会になった。情報がないために、議会は金融政策に対する最低限の監督さえ行うことができなかった。そして1975年までの議会の見解では、金融政策は最近の二度にわたる深刻で苦痛を伴う景気後退の責任を負うものであった。
79年春にジミー・カーター大統領は、保守派の専門的な中央銀行家ポール・A・ボルカーを連邦準備制度理事会の議長に任命した。彼自身はマネタリストではなかったが、マネタリズムに基づき行動した。
1979年10月6日、ボルカー議長は、金融政策は短期においてさえも、もはや利子率の安定化を図るのではなく、貨幣管理は時代の要請である、と発表した。短期利子率は20%以上も上昇した。
このころのアメリカでは金融自由化の動きが強く、特にアメリカでの経済成長の大きな要因の一つであった、非富裕層への住宅所有の機会を提供する大衆向けの住宅抵当市場の創設だ。これは、貯蓄貸付組合が抵当貸付に専門化すること(貯蓄貸付組合に資産構成要件を課すこと)、抵当貸付の流通市場を創設すること、さらには利子免除によって間接的に抵当貸付を補助することにより達成された。
貯蓄貸付組合の資金調達は銀行に依存しており、大衆向けの住宅の長期ローンは数%ほど、この状況で繋ぎ資金の金利が20%に跳ね上がってしまい、多くが倒産した。
金融引き締めと量的な信用管理により景気後退に突入した。
さらに、1981年にレーガン政権の発足。レーガノミクス(連邦政府支出抑制、減税、規制緩和、インフレ抑制のための金融政策)により貨幣増加率は0にまで低下、減税が個人貯蓄ではなく個人消費を拡大させるとともに、社会保障費と国防費の増加で政府支出の抑制にはならなかった。
貨幣管理と言うが、結局貨幣量の管理はできなかった。というよりもできるわけがない。これについてはまた別で。
さて、以上の結果から、内外金利差によるドル高や、1982年にインフレは終息し国内需要が増加し輸出額が増加したのであった。
アメリカは二つの赤字を抱えた。経常収支赤字と財政赤字。
経常収支赤字を是正するために「プラザ合意」が行われた。
ニューヨークのプラザ・ホテルにてG5(日本、アメリカ、西ドイツ、イギリス、フランス)、蔵総・中央銀行総裁会議において発表された声明文で、アメリカの赤字解消と日本・西ドイツでの内需拡大目標、非ドル通貨の対ドルレートの上昇が目標とされた。
この合意の後、円高が急激に進んだ。
1ドル242円であったのが数か月後に200円、翌年には160円にまで上昇した。
急激な円高により日本は円高不況になる。実質経済成長率は5.2%から2.6%へ。これを契機に日本は外需主導から内需主導へと転換する。1987年から「平成景気」と呼ばれる好況が始まる。円高は国内の民間消費に恩恵を与え、民間設備投資も1987年には回復し、90年にかけての内需成長に寄与する。この状況がバブル経済へとつながっていく。
一方、アメリカでは赤字の解消には至らず、不均衡は拡大していく。そして1987年2月に「ルーブル合意」でアメリカはドルの安定に努め、日本と西ドイツは内需拡大に妥協する。