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最古の記憶はものづくり

両親の言うことには、私はハイハイがとても上手だったようです。高速に、どこまでもハイハイで移動したと言います。ですから、両親は私が危険なところに勝手に行かないかと気をもんでいました。都合の良いことに、その頃の私は丸めた新聞紙をとても怖がっていたらしいです。ですので、危険なところには新聞紙を丸めて置いていたそうです。

いつしか私は紙に対しての恐怖心を全く克服し、紙を操ることに強烈な興味を抱いていました。

紙工作で一番最初に手を出したのは、おそらく折り紙でした。折り紙との付き合いは、保育士の年配の女性に教わったことに始まります。折り鶴程度は折れるものの、それ以上特段の興味を折り紙に対して示していなかった私に、アヤメを折って見せてくれました。アヤメは、当時の私にとって衝撃的な作品でした。あまりにも綺麗に立体となっていたのです。折り鶴とは違う、立体としての面白さを感じました。それからアヤメを教わり、さらに色々の古典的な折り紙作品を学びました。今となってはアヤメでさえも折り方を忘れてしまいましたが、とても楽しかったという感情だけは残っております。折り紙に慣れてくると、私は意図せずスピードを追い求め始めました。ある工程を折っている間に、その次の折り図を見ておくようなことをしたのです。元来私はせっかちなのでしょうか。今でも似たようなことは常にやっていて、それ故か、多くの人と比べて今でも制作スピードが速いと言われます。ただ、この方法には代償もあります。現在の工程への注意が疎かになりますので、必然的に作品の質は落ちます。これは、小学生になってもずっと私の課題であり続けました。

家のカーペットの上で紙工作をしている光景を覚えています。ずっとはさみをねだり続けて、確か3歳か4歳の誕生日にはさみを買ってもらいました。はさみ本体は簡素で、丸みを帯びた刃先と短めの刃が特徴です。それに、黄色い半透明のグリップがついています。さらに、刃先の収納ケースがついていて、これにはプーさんがあしらわれておりました。ケースについてはいつしか無くしてしまいましたが、本体については今もよく手にとって紙を切るのに使っております。さて、記憶の中の光景に戻りましょう。カーペットの上に、正座を崩した体勢で座り、黙々と何かを作っておりました。実は、もはや何を作っていたのかは思い出せません。そうしているうちに母がやって来て言いました。危ないのではさみを床に置かないでくれ。ただそれだけの記憶です。

買ってもらったはさみ

ところで、はさみを買ってもらうまでは、私が紙を切る手段はかなり限られていました。大人にお願いしてはさみを一時的に借りるか、もしくは手で頑張って切るかです。そのような状態でしたので、今でも私は手で紙を綺麗に切ることを密かに特技としております。

自由に使えるはさみを手にした私は、折り紙以外の工作を始めます。家族で何かの展覧会を見に行ったときに、ロバート・サブダによる飛び出す絵本に心を惹かれました。ガラスケースの中に開いて置かれた本を、食い入るように見つめていたと記憶しています。なぜだかわかりませんが、私はおそらく他の人と比較して、立体を把握することに長けていました。ですから、サブダの作品の全ての仕組みを理解できないことは当然ながらも、いくつかの基本的な仕組みを発見しました。そしてそれらを組み合わせて、憧れのサブダの作品を、自己流に簡略化して、再現しました。それに発端し、しばらくの間は飛び出す絵本の作品を自分で考えて制作することに、情熱を注いでおりました。

「とびだすえほん」より「てぃらのさうるす」(4歳頃)

まもなくして、飛び出す絵本の講習会のようなものが開催されると両親に誘われ、威勢よく参加しました。講習会の終了後に、講師に自分の作品を見せに行ったことを記憶しています。しかし、覚えているのは私の作品の表紙の文字を読み間違えられてしまったことだけです。この講習会では既知の仕組みについての説明もありましたが、いくつか私の知らない仕組みの解説がありました。ですので、直後から私は学んだ新たな仕組みを使っていくつか作品を作ってみました。

その後のことで覚えているのは、またしても紙工作をしている記憶です。幼稚園で仲の良かった子と二人で、立って何かを作っておりました。こちらも、何を作っていたのかてんで思い出せません。ただ、おそらくトイレットペーパーの芯やら画用紙やら、そういったもので素朴に何かを作っていたと推測します。

紙との付き合いは、小学校に入学してからも続きます。よく、折り紙を折っておりました。というのも、迷惑であったことは反省しつつも、授業中に手持ち無沙汰となって真っ先にできることは折り紙であったからです。机の引き出しを見れば、15cm角の折り紙が大量に入っておりました。それを1枚取り出して、思うままに折りました。色々な難しい折り紙にも挑戦し、なんとなく形にしておりました。また、自分でも様々な作品を考案して、その折り方を折り紙に描いて冊子にしました。

「折方説明」より「アノマロカリス②」(10歳頃)
「アノマロカリス②」の再現

折り紙は15cm角のものしか持っておりませんでしたので、折り紙自体の小ささには非常に苦労しました。そのうちに、北條高史氏による「バイオリン奏者」という作品に出会います。強烈に心を惹かれ、一度折ってみたいと思いました。偶然にも折り図を手に入れることができましたので折ってみたのですが、こちらの作品は序盤の折り筋をつける段階で正方形の折り紙を40等分して最終的に蛇腹折りするという特徴的な作品です。当然、15cm角の折り紙では不可能です。家にあった大きめの紙を使って制作を試みたのですが、さすがに難しすぎて、失敗を重ねました。しかし、失敗しつつも実際に手を動かしてみると、折り方のそれぞれにどういった役割があるのかが段々とわかってまいりました。それがわかれば、あとは自分の力で簡略化できます。序盤の40等分を20等分に済ませた上で、様々な省略を行って、15cm角の折り紙でもある程度綺麗に折れるような改造を施しました。余談ではあるのですが、中学生になってから年始に暇な時間がありましたので、バイオリン奏者に再挑戦しました。その結果、ある程度綺麗に原本のバイオリン奏者を作り上げることに成功しました。

簡略版「バイオリン奏者」(11歳頃)
「バイオリン奏者」(13歳頃)

さて、小学生時代に蛇腹折りを制した経験は、私が独力で創作した折り紙作品にも繋がりました。当時の私はムシに非常に心を惹かれておりましたので、カブトムシをいかに15cm角の折り紙で折るかを常に考えておりました。6本の脚と2つの角を、いかに1枚の折り紙で作り出すか、ずっと悩んでおりました。しかし、バイオリン奏者の経験によって、蛇腹折りは自由に突起を作ることに非常に容易いことがわかりました。そこで、バイオリン奏者の蛇腹折りをヒントに、突起を作る位置を工夫してカブトムシを作ることに成功しました。

「カブトムシ」(11歳頃)

小学生時代には、さらに切り絵にも心を強く惹かれておりました。2年生か3年生の頃に、友達と大勢でものづくりワークショップのようなものに参加する機会がありました。そこで音楽に乗って自由に白い紙にはさみを入れる人を見て、心を惹かれました。それ以来、自分のペースで様々な方法で切り絵を作っておりました。折り紙と同様、これもまた申し訳ないことではあるのですが、授業中に、幼い頃の誕生日に買ってもらったはさみで、15cm角の折り紙を自由に切ることがありました。特に切り絵を好んでいたのは、確か4年生の頃です。45分の授業の間に1つの作品を作る程度のペースで、龍を切ったり、何かの紋章を切ったりしました。さらには、紙を複雑に折り、はさみでそれを一刀両断することで好きな形に紙を切ることも好んでおりました。私は名字が「山名」と単純な形をしておりますので、これを成形しようと奮闘しておりました。

左から「竜」「金閣」「銀閣」(10歳頃)
一太刀で成形した「山名」(10歳頃)

さて、小学生時代には、紙工作以外にも工作を行っておりました。とは言え、小学生時代の私には加工技術がありませんでしたので、LEGOをはじめとする様々なブロックを使って立体作品を制作しました。特に私は飛行機に関心がありましたので、旅客機の大きな模型をLEGOで制作したことを記憶しております。通常のLEGOの他に、家にはいつからかLEGOのマインドストームNXTが置かれていました。これはロボットを作ることに特化したLEGOで、可動部品やセンサ、そして頭脳ブロックがあり、さらにはパソコンでプログラミングもできるというものでした。おそらく何かのプレゼントで両親にもらったものですが、長らく放置していました。販売時期を調べれば、おそらく1年生か2年生の頃にもらったのだろうと推測します。今思えば高価なNXTを放置していたのは申し訳ない気持ちもあります。しかし、家におもちゃが転がっているというのは非常に嬉しいことで、何かの拍子に思い出して触ってみると、即座に心を奪われました。

両親はマインドストームと共に、「オレンジブック」という本も買っておいてくれました。これは正式には「LEGO MINDSTORMS NXTオレンジブック―アイデアノタマテバコ」という本でして、本文を引用すれば、非常に「不親切」な本です。この本には、NXTを使った様々な小さいロボットの作例が載っているのですが、具体的な部品の組み立て方は一切書いておりません。ただ、完成品を様々な角度から撮った写真が何枚かと、作品紹介のコメントがあるだけです。しかし、それでも試行錯誤の挙げ句にはきちんと作りたい作品を作ることができました。今思えば、一筋縄ではいかないようにできているからこそ、それぞれの部品の意味を考えて制作することができたような気もしております。

この頃の作品の写真を探してみたのですが、驚くことに1枚たりともありませんでした。鉄砲のようなもの、段差を乗り越えるロボット、オレンジブックに載っていた機構を使った二足歩行ロボットなど、作っては壊すことを繰り返しておりました。

2年生頃から、両親に誘われて高専ロボコンと大学ロボコン(現在のNHK学生ロボコン)の全国大会の会場に足を運ぶようになりました。特に高専ロボコンは楽しんでおりました。各チームが独自のアイデアと機構で、定められた目標を達成しようと奮闘する様は、とても魅力的でした。記憶に強く残っているのは、いつかのとても大きなロボットです。扇形を中心で2つくっつけたような形を複数使ってうまく移動するというロボットでした。なぜこのような形にしたのかという詳細はまるで覚えていないのですが、ただただ面白くて、見たままをメモしていたと記憶しています。高専・大学ロボコンの見学では、当然、様々な機構を目にすることになりました。そして家に帰ると、印象に残った機構をLEGOのNXTを使って再現することが恒例になっておりました。

6年生の夏、初めて一人ではんだ付けから全て行ってロボットを一つ作りました。当時はよく子供の科学という雑誌を読んでおりまして、その中にある電子工作コーナーの作品を自分でも作ってみたのです。そのロボットは、アナログ回路だけで作るライントレーサー、黒い線の上を走るロボットです。それまでも何度か秋葉原に行ったことはあったのですが、これが明確な意志を持って秋葉原に行った最初の経験でした。母と一緒に秋葉原に行き、今はなくなってしまったマルツ2号店に行きました。と言うのも、マルツでは子供の科学の電子工作コーナーで使う部品をまとめて売ってあったからです。しかし、あいにくその日はセットの販売をしていませんでした。マルツの秋葉原本店を紹介され、行ってみたのですが、やはりありませんでした。仕方がないので、一つずつ店員さんに相談しながら部品を揃え、購入しました。しかし、これが結構面白かったと記憶しております。ところで、当時は知らなかったのですが、その年は「夏休みのプログラミング学習」のようなキャッチコピーで、プログラミングができるライントレーサーのキットが発売された年でした。それもあり、偶然ながらその日のその時間にテレビの取材がマルツに来ておりました。店員さんと熱心に会話する私の様子に興味を持っていただけたのか、取材を受け、後日テレビで放送されました。とても嬉しかった記憶があります。

帰宅後、早速父のお下がりの古いはんだごてを使って組み立てを開始しました。しかし、当然、一筋縄で行くことはありませんでした。結局、うまくいかない原因を究明して改善するというサイクルを数日をかけて繰り返し、ようやくある程度動くところまでこぎつけました。うまく動かないことにはイライラすることもありましたが、その分、うまく動いたときの嬉しさを強く記憶しております。

「ライントレーサー」制作レポート(11歳頃)

そうして、小学生時代が終了しました。中学校は、受かる見込みのほとんどないままに受けた小石川中等教育学校に受かることができましたので、そちらに進学しました。合格発表の前日は大雪でした。特に受かると思っておりませんでしたので、合格発表の日は朝から外で雪遊びをしていました。そうしたら両親に「なんか受かってるよ」と言われて、あわてて小石川中等教育学校に向かったと記憶しております。その帰りに、周辺を一人で散歩して帰りました。小石川中等教育学校の隣には文京グリーンコートという施設がありまして、この中に木々の間を抜ける小さな遊歩道がございます。雪の積もって人の形跡のない遊歩道を、不思議なこともあるものだと思いながらサクサクと音を立てて歩きました。

入学して早々に母を通じて、同じクラスにロボットを作れる子がいるらしいという噂を聞きます。結局、まさにロボットを作れる人はいなかったのですが、電子工作やプログラミングができる人や、それに興味がある人を集めてY-modifyというチームを結成しました。

小石川中等教育学校には物理研究会という部活があります。私の入学時には小さな団体だったのですが、それでも当時から「ロボット班」なるものがあり、当時4年生(高校1年相当)の部長と2年生の先輩たちが何人か、ロボットを作っていたのです。特に2年生の先輩たちはライントレーサーを作っており、詳しく話を聞くとロボカップジュニアという大会のレスキューA部門(現在のレスキューライン相当)に出場予定だとわかりました。面白そうでしたので、こちらを目指して私たちもチームで開発することにしました。

10月に定期試験がありまして、11月に東東京大会という最初の大会がありました。そのような日程の中で、10月の定期試験まではLEGOのNXTを用いてロボットを作っていたのですが、NXTに限界を感じていましたので定期試験後すぐにNXTをやめて、Arduinoを使ったロボットの制作にとりかかりました。当時、Arduinoを扱えるのはチームで一人だけでしたので、主に私はロボット本体を制作し、Arduinoを扱えるチームメイトがプログラミングを担当しました。1ヶ月という短い期間でロボットを作り上げたのですが、出来栄えは非常に悪く、大会当日に様々な不具合が見つかるなど散々な状態で、この大会でボロ負けして帰ってまいりました。これが1年生の後半にさしかかったころの話です。

ロボカップジュニア2014レスキューA東東京大会出場ロボット(13歳頃)

来年も大会に出てリベンジしようという方針でロボット作りを進めていたのですが、1年生の終盤に私がヒューマノイドロボットの制作を開始し、このプロジェクトが思いの外大きくなりましたので、結局ロボカップジュニアに出場したのは1年生のときの1回きりとなりました。

実は、LEGOのNXTには標準でいくつかの作例があり、その目玉としてヒューマノイドロボットがあります。小学生時代にNXTを買い与えられた直後、父の助けを大いに借りて、このヒューマノイドロボットを組み立てました。このときの経験からなのかわかりませんが、私は心のどこかで、ヒューマノイドロボットへの憧れを抱えてきたのでしょう。

小学生時代の終盤にはリコーダーの演奏にも心を惹かれておりましたので、これをロボットにやらせてみたら面白そうだと思い、1年生の終盤にお金を工面して20個程度のサーボモーターを通販で購入しました。しかし、それが届く頃にはリコーダーへの熱意は冷めており、この大量のサーボモーターを持て余してしまいました。そのタイミングでヒューマノイドロボットへの憧れが爆発し、突発的にヒューマノイドロボットを制作しました。しかし、買ったサーボモーターは元々リコーダーの演奏用途を想定していましたので、非常に貧弱なものでした。そのようなサーボモーターでうまくヒューマノイドロボットを動かせるはずがありません。結局、このロボットをうまく動かすことはできませんでした。そして、この経験でヒューマノイドロボットを作るには相当のお金が必要だと学びました。「お金があったら作るロボット」として、妄想を膨らませるほかありませんでした。

「山山山2014」(13歳頃)

その妄想が予期せぬ形で現実となりました。チームメイトの一人が個人的にとあるコンテストで受賞し、賞金をもらったのです。その一部をヒューマノイドロボットの制作に回しても良いということになり、2年生の初夏から本格的にヒューマノイドロボットの制作にとりかかりました。当時としては奮発して、高トルクのサーボモーターを20個ほど買い、身長60cm程度のヒューマノイドロボットを作りました。さらに、チームメイトはそれを動かすソフトウェアの制作をしました。しかし、このロボットは大きすぎて歩くのはおろか、立つことさえギリギリという状況でした。このとき、Maker Faire Tokyo 2015にY-modifyというチームで出展しました。ヒューマノイドロボットはその展示品の1つです。出展申し込みでは「ヒューマノイドロボットを展示します。もちろん歩きます」と書いたものの、結局はこのヒューマノイドロボットはほとんど、ただ座っているだけでした。

「YamaX 2.0」Maker Faire Tokyo 2015にて(13歳頃)

Maker Faire Tokyo 2015の出展直前、私たちはあまりの進捗のなさに絶望しながら必死にロボットを作っておりました。私はこのとき2時まで夜更かしをして、これは長らく私の最長の夜更かし記録でした。このときは大量のサーボモーターの制御にTLC5940というLEDドライバICを使っていたのですが、これが非常に繊細なICでして、大量に壊しておりました。出展当日にも壊れてついに手元にICがなくなり、母に秋葉原へのおつかいを頼んだほどです。しかし、それでも出展することには大変な意義がありました。この出展を通して様々な人からアドバイスをもらい、また、このTLC5940に代わる素晴らしいIC、PCA9685を知りました。

Maker Faire Tokyo 2015は8月の序盤に開催されました。そして、小石川中等教育学校では9月の半ばに創作展という学祭があります。Maker Faire Tokyo 2015の終了後は、今回の反省を生かして創作展に向けたロボットのアップデートを即座に開始しました。全ての設計を見直して、60cm程度あった身長を25cm程度まで小さくしました。また、サーボモーターの制御にはPCA9685を使用しました。これにより、やっと思い通りに歩くヒューマノイドロボットの制作に成功しました。こちらのロボットは非常に安定して動きまして、創作展でも様々な方に関心を持っていただけました。創作展の終了後に、試しにどこまで歩けるかを実験しようと思い、無限に歩かせる設定にして動かしてみました。すると、ゴミ箱にぶつかって倒れるまで200歩ほど歩いてくれました。想像以上の出来栄えに感動したことを記憶しております。それから、4年生の終わり間近まではずっとヒューマノイドロボットの改善をしておりました。

「YamaX 2.2」(13歳頃)

小石川中等教育学校はSSH(スーパーサイエンスハイスクール)指定校でしたので(2022年現在もそうです)ので、SSH関連での発表の場が多くありました。ですので、毎年数件、ヒューマノイドロボットについてポスター発表をしました。基本的には研究発表の場ですので、本来はロボットのデモンストレーションなどは行わない雰囲気でしたが、お構いなしにポスター前に台を置いてヒューマノイドロボットを動かしておりました。

4年生も終盤となり、ヒューマノイドロボットの開発もある程度満足してきた頃、今度はヒューマノイドロボットを動かすソフトウェア部分について課題があることを発見しました。当時はチームメイトの一人と私とでヒューマノイドロボットを作っていたのですが、ロボットの動きを作る作業、つまりそれぞれのモーターの角度を定める作業は、私が経験を頼りに手動で行っておりました。これを強化学習で自動化してみようという試みを始めました。こちらの研究は京都大学サイエンスフェスティバル2017にて4年生の終わり頃に京都大学まで出向いて二人で発表し、副学長賞をいただきました。この発表についても、直前までは絶望的に進捗がなかったのですが、発表前日に相方が開始した強化学習が、当日の朝になって見たら思いの外うまく動いておりまして、京都までの新幹線の中でスライドを大幅に作り直して発表しました。これが、賞という形での最初の実績でした。

これがきっかけになり、対外的な活動が増えて今に至ります。

結局、私はものづくりにずっと心を惹かれ続けていて、いまだに昔と変わらず、そのときに気が向いたものをただ作っているだけなようです。小石川中等教育学校の物理研究会には、いつからか生徒が勝手に考えた標語がありました。「好きなときに、好きなだけ。」


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