見出し画像

私がエンジニアになるまで

「1人の女性がエンジニアになるまで」シリーズ読んでたら、せっかくなので複数の記事に分かれているあれこれを再編集して書いてみよう!という気持ちになったのでやっていく!

幼少期

父が工業高校出身で電気に関する勉強をしていた人でした。その関係なのか家には山ほど工具があったり、幼稚園の頃には父が率先してファミコンを買ってきたりと他所の家庭と比べると電化製品が多い場所で育ちました。

その後、ファミリーベーシックを購入した父が嬉しそうにカセットテープに入ったプログラムを読み込ませて楽しんでいる横で、ファミリーベーシックの本をひたすら読むというただの活字が大好きな娘として育ちました。この時は全然プログラミングというものに興味は無く「占いができるファミリーベーシックというものはスゴイな!!!」としか思っていませんでした(苦笑)

小学生

学校の授業は活字中毒な自分にとってはとても退屈で、授業中いつも先の内容を読みふけって過ごすようなとっても生意気な小学生になりました。

始めてパソコンに触れたの記憶として残っているのは小学2年生の時。父の職場に連れて行ってもらい、時間つぶしにと与えられたのが(恐らく)MSDOSのパソコン。普通ならここでお絵かきソフトを渡すのでしょうけれど、父が渡したのは「ローマ字表」と「一太郎」まだローマ字を小学校で習っていなかったため必死に覚えてひたすら文字を書いていたことを覚えています。(お陰で学校でローマ字を習う頃には完璧に覚えていました!)まだ、この頃はキー配列を覚えておらず指1本で一生懸命探しながらポチポチ入力していました。

高学年になった頃、父はパソコン通信を始めていました。ペラペラのフロッピーディスクが2枚入るPCを自宅に設置し、田舎で市内にアクセスポイントがないため市外局番に電話をつないでいたと記憶しています。なんだか面白そうだったのでやってみたかったのですが、頑なにNOと言われ、自分で触ることは叶いませんでした。父の後ろで見ることは許されていたのでじーっと画面を眺めながらどこかの誰かとつながっている世界があるんだということを知った時期でした。

PC自体を触ることは許されていたので、やっていたのはもちろんゲーム。父が入れてくれた、SuperDepthをひたすらやっていました。卒業する頃には漠然とパソコンを使った仕事がしたいと思うようになっていましたが、具体的に何をやるというのは全く考えていませんでした。

中学生

Windows95が発売され、TVでもバンバン紹介されるのをみてこれまでのPC画面との違いに大変驚きました。そう、私がこれまで使っていたのはCUIのもの。TVで流れているのはGUI。とても見やすくて使いやすそうな画面に心が躍りました。となると、Windows PCを触ってみたくなるというもの。父にダメ元で誕生日プレゼントとしておねだりをしてみました。すると、父は店頭で選んでPCを買って帰ってきてくれました。何らか条件は付いていたように思いますが、訳あって(詳細な理由は後述)真面目にコツコツ勉強していたので大して苦になるようなことはありませんでした。機種は記憶が確かなら、PC-9821Cu10。誕生月の一ヶ月前に発売しているので当時の最新機種を購入してくれた模様です。父とともにPCショップへ行き、私の学生証を使ってマイクロソフトのBasicを買ったりしていましたが、当時の私にはBasicの使い方がイマイチ理解出来ず、購入したPCに付属のゲームをやったり、CD付の雑誌(DiskStationなど)を買ってきて、とにかくゲームばかりやって過ごしていました。

この頃にちゃんとプログラミングをやったのは中学校の授業でBasicを使った絵を描くプログラムと、父がどこからか持ってきたポケコン+ゴリラの表紙のプログラム本を何も考えずに写経するということ。プログラミングとやらを学べばゲームが作れるようだということを知るきっかけになりました。

あとは近所のお兄さんから大量のファミ通を貰い、それらを読みふけながら、ゲームプログラマになったら楽しいのではないか?と考え始めていました。

学校の勉強は小学校から引き続きひたすら真面目にやり続けていましたがそれにもきちんと理由があります。高校受験を楽したかったから。これただ一つ。高校は中学と違い「自分で学校を選ぶ」事ができ、成績が良ければ推薦入学できると中学に上がった時点で情報を仕入れていたのです。プログラミングをやるのであれば英語は必須であろうと考えていたため、英語が多く学べる学校の推薦枠をゲットしたのでした。本当は、狙っていた公立高校の推薦1本で行く予定だったのですが「もしも」の事があったら行けないからという母の願いを受けて渋々私立を受験。特進コースのある学校でしたが、点数が良いと自動的に特進コースに受かるという学校だったため、事前の勉強はちょっと手抜きして受験しました。特進コースに受かると高校卒業後に進むと決めていた専門学校ではなく大学へ進まざるを得なくなりそうというのが当時の私の懸念点だったのです。滑り止めの高校は私のもくろみ通り「一般コース」で合格。(入学金の一部を公立高校の合格発表前に入金せねばならず、「もったいないよーー!」と母と話しをしたことを未だに覚えています。)

その後、努力の甲斐あって、本命だった公立高校の推薦に無事合格し英語が学べる近所の制服がとてもカワイイ高校に通えることとなりました。

高校生

高校入学後は、週1回のゆるい部活にはいり、部活のない日は友人の部活にお邪魔して楽しく過ごしていました。文系だったため男女比は2:8と女子が多いクラスでした。英語の学習が多いクラスだったので、頑張って勉強しつつ、高校2年の時にはホームステイにも参加し、プログラミングに必要であろうと思われる数学の追加授業も受けさせて貰っていました。文系のクラスにもかかわらず、数学の点数がよく共通テストを受けた際にも理数クラスを抜いて良い点数をとっており、先生に目を付けられてしまいました。入学時点から専門学校へ行く気満々だったため、何とかしてこの子を大学に進ませたいと先生があの手この手を使って誘導されましたが頑なに専門学校に行くと粘り続ける日々を過ごしていました。

パソコンに関連するところでは、当時受講していた「進研ゼミ」でインターネットをつないで受講するテスターの募集を発見。こんな面白そうなものが出来るなんてインターネットスゴイ!!と思い、調べに調べて自宅からなるべく低予算でインターネットに繋げるプロバイダーを探し出し、母に直談判。「テレホーダイの時間のみの利用で」という条件でインターネットへの接続に成功しました。テスター業もやりつつ、インターネット上にホームページを作れると知りHTMLやCSS、ドット絵を描いてみるなどクリエイティブな事に目覚めた時期でありました。また、高校での調べ物にもインターネットを利用してより多くの文献を当たったり、英語劇の台本作りをする際にインターネットで見つけたかわいいフォントで作るなどゲーム以外でパソコンに触れる時間が多くなっていました。当時大流行していたポケモンの裏技攻略サイトを見つけ、仲が良かった弟に印刷して見せてミュウを作ろうと躍起になったりもしていました。たった数年でパソコンとインターネットは私にとって無くてはならないものになりました。

この頃くらいから、文字入力が早く無いと困るな…と思い本格的にタイピング練習を開始し、ブラインドタッチを習得しました。早く入力できるようになりたかった理由はチャット。インターネットでつながった誰かとの会話をテンポ良くやっていくために必死になって覚えました。

専門学校

本当は東京の専門学校へ進学したかったのですが、1人で見知らぬ土地に暮らすのはちょっと心配だからということで、親戚がいるところで探すように母から言われ、大阪のコンピューター総合学園HALに入学しました。ゲーム学科の2年制にはいり、親戚の家に居候させて貰いながらプログラミングについてここで初めて勉強を開始。最初に学んだのはC言語でした。

C言語でプログラミングの基礎を学びつつ、スーパーファミコンのアセンブラコードを書き少ない容量でどのようにゲームを作るのかを学びました。ゲーム学科という名前のためプログラミングだけでなく、絵を描いたり、音楽を作ったり、職業訓練のためWord、Excel等のITの基礎知識などなど2年間の間に様々な事をたたき込まれました。クラスの男女比は9:1にも満たない程女子が少ない状態で、その少ない中でもプログラミングをやりたいと思って入ってきたのは私たった1人でした。

新聞奨学生の人と同じクラスだったということもあり、早い時間に授業が終わるため、空いた時間はアルバイトをする事に。アルバイト雑誌を眺めていたところ「紀伊國屋書店」を発見し、早速応募。なぜ書店員バイトを選んだのかというと本を社割で買える特典があると書いてあったから。学生にとって技術本はとても高額で少しでも安く抑えて購入したかったのです。最初は理学コーナーの担当だったのですが、専門学校に通っていて知識もあるからということでコンピューターの棚の担当に代わり、社員の皆さんに大変よくして貰いながら楽しく過ごしていました。

当時、「Rubyを256倍使うための本」がじわじわと売れていたことを覚えていますが、私はRuby自体に触れることはなく時が過ぎていきました。

学校の選択授業で当時流行始めていたオブジェクト指向に触れてみたく、JAVAの選択授業を受けて、基礎を学んだ後自分でiアプリを作ってみていました。iアプリを作るサロンのような場所がありそこに遊びに行ったり、卒業制作もiアプリで参加をしたと記憶しています。

一社目

ゲーム会社に入りたいと願って専門学校にまで来ましたが、学んでいくうちに2年制ではゲーム会社に入るのは茨の道で4年制に切り換えなければほぼ無理で有ることを知りました。しかし、有利子の奨学金を受けながらの2年制で精一杯だと感じた私はこれ以上の進学は諦め、就職担当と相談しながらいくつかの会社の面接を受けつつ、なんとかゲームに関わることが出来ないか…?と模索していました。そんなときに就職担当より「一般企業だが、ちょっと受けてきて欲しい就職先がある」といわれて面接に行きました。それが前職の「ダイハツ工業」でした。当時のダイハツ工業では「専門学生の新卒入社は推薦のみであること。合格した場合は必ず就職すること」をなんと私は就職面接で知らされ、就職担当に騙された!!!と気づきます。面接官だった方(後の上司)は私に配慮してくださり、【内々定】という形式で提示をしてくれました。ゲームに関連した仕事をしたいと思っていましたが、父がパソコンの次に好きだった車に関する大企業に入れるということは親孝行にもなるなと思いとても悩みました。母に電話で相談した上で、滅多にないチャンスだからということで就職を決意しました。

その後きっちり就職担当にはクレームを入れつつも、【内々定】を【内定】にして貰えるよう、取り次いで貰い入社後にどのような仕事をするのか教えて貰いました。どうやらCOBOLをやるらしいと。全く触れたことがない言語でしたが、プログラムは何か一つ極めていれば英語と同じく似たような文法で書けると聞いていたのであまり不安には思わず入社しました。

入社後、情報システム部に配属されCOBOLをやると思い込んでいたのですが実際にはCOBOL一度も触りませんでした。面接でプログラミングの基礎がついていると判断した面接官をしてくれた上司がバリバリ新しいプログラムをするチームに配属をさせたのです。Office95シリーズで動いていたプログラムを当時の最新のOfficeで動作するように移植したり、人事システムをVBScript+ASPで設計から行ったりとプログラマーとして様々な経験をさせて貰いました。

今でこそ言えるのですが、実は割り振られた仕事がすぐに終わってしまい暇な時間が多かったためExcelVBAの掲示板に入り浸って回答したり、当時流行始めていたブログを書きつつ、Javascriptを用いたカスタマイズを行ったりと業務に支障が出ない範囲で自由に過ごしていました。

そして現在

専門学校の卒業間際から付き合っていた現夫と結婚する事になり、大阪から東京へ移住することになったことをネット上に書いたところ当時paperboy&co.(通称ペパボ)の社長である家入さんに誘われ入社する事になりました。実はペパボ以外にもLivedoorを受けていたのですがイマイチピンと来なかったのと先に内定をいただいたというのもあって転職先を決めました。(まさかこの数年後にLivedoor事件が起きるなんて全く予想もしていなかったのですが…)

ペパボに入ってからはしばらく夫婦二人で稼ぎつつ楽しく過ごしたり、子どもが生まれて自分の考えを大きく変えざるを得なくなったりと様々な経験をさせて貰いました。ペパボに入った最初の女性エンジニアであったということもありロールモデルがおらず自分が切り開いていくしかない!!!という状況ではありましたが、周囲の応援や協力もあって今も楽しくお仕事を続けられています。

今はエンジニアリングリードとして自らの技術力だけでなく、メンバーのみんなの力量をどうやって上げていくのか?ということや新しく入ってくれる仲間探しに注力しています。

ペパボ入社後の詳細が気になる方は、つい先日下記のnoteにまとめましたのでどんな仕事をしてきたのかリンク先をご覧ください。

振り返ってみて

プログラミングを職にしたかった父に実は誘導されていたのではないか?という疑惑が拭いきれないのですが数年前に病気で他界してしまったため、本当のところについては確認出来ていません。最初に就職したときは私以上に喜んでくれていましたし、父もプログラミングが出来る様になりたかったみたいで私が勉強を終えた技術本を送るとそれを利用して挑戦してみているよとメッセージをくれたこともありました。今もこうして過ごしていけるのは父のお陰だなと感じています。

母は機械に疎いのですが、中学を卒業してすぐに働きに出ており社会というものを経験していることから、田舎特有の女子を遠方に行かせない・進学は短大で十分などという考えではなく考え方がとても自由な人でした。私が専門学校に行った後、周りのママ友達に「家から出しちゃうなんて、信じられない!」と言われたそうです。そんな謎のしきたりから私の事を守ってくれて、やりたいことをやれる範囲で好きにさせてくれたことは感謝してもしきれません。未だに慣れないなりにLINEしてくれますし、おしゃべりが大好きな私の娘に付き合ってくれる優しい母です。そして程よい放任主義でいてくれたことが、問題解決力の礎となり、今の私を作ってくれているんだろうなと思います。

多分、この父と母の元に生まれなかったら私はこうしてエンジニアになるという未来はほぼ無かっただろうと思います。エンジニアじゃなかったとしたら恐らくパティシエでも目指してたんじゃないかなと。(なれるかどうかは別として。)専門学校の卒業時はアメリカでテロ事件は起きた上に、就職氷河期まっただ中だったため、騙されて推薦を受けていなかったら派遣で細々と暮らしていた可能性もあります。本当にさまざまな縁が上手く結びついて今ここにいるんだなぁと感じています。

私の今の懸念事項は二人の子ども達のこと。様々な経験をさせて、広い選択肢をもってもらい将来の夢をなにか一つでいいから見つけて本気になってくれるといいなと思っています。息子がプロゲーマー目指すのならそれも有りかなと思いますし、娘の魔法使いになりたいという夢は本当の魔法でなくても何らかの形で叶えられたらいいなと思っています。大人の都合でねじ曲げて将来に影響することがないようにして行きたいというのが自分のこれまでを振り返ってたどり着いた【願い】です。

気に入っていただけたらサポートお願いいたします。 いただいたサポートは活動費として大切に使わせていただきます。