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勤続15年すぎてたので振り返る

女性エンジニアとして15年も働かせて貰えて大変幸せなことだなぁと思うので、自身のライフステージの変化も併せて思い出しながら書き出していきたいと思います。

入社きっかけ

もともとロリポップを友人に教えて貰ったことがきっかけで会社を知りました。当時、格安で広告なしでCGIの設置が出来るのは画期的だった事を覚えています。その会社が当時ブームが起きていたブログに参入すると聞き、使いがっての良さからMovableTypeのブログから移転。その頃、結婚する事になり上京する事となっていたため東京での職を探していると言う話を書いたところ当時社長だった家入さんよりお声がけいただき、何度かの面接を経て入社しました。

入社してすぐ

入社きっかけとなった『ブログ(JUGEM)のサービスを担当して貰う事は無いよ』と当時のリーダ的な人に言われたことを今でも覚えています。別にブログをやりたくて入ったわけではなかったので全然気にせず、頼まれたアクセス解析のシステム作りを担当していました。ビーコンを埋め込んでそこから取得出来る値をDBに入れるという簡単な仕組みだったかなと思います。ただ、これは世に出ることはなく、頓挫しました。

その理由は、システム切り替えの影響でまともに動く状況ではなかったJUGEMの仕組みをきちんとサービスとして運営出来る状態にしたいというミッションが急遽下ったからです。受けてチームを結成し、決められた期限内に「ふつうにつかえるブログ」にするというのが今の会社に入って最初に世の中にリリースされた仕事となりました。チームメンバーで話し合いをした結果、当時実績があったロリポップの構成を踏襲し、プログラムもそれに併せて修正することとなり、今後の管理を楽にするためPHPのなかにHTMLが入り交じっている状態だったものをSmartyを利用してtplとPHPの処理を分離させるという仕組みに変更しデザイナーさん自身で編集出来るようにカイゼンをしました。

JUGEMの運営開始〜第一子出産まで

JUGEMが「ふつうに使えるブログ」となった後は、様々なことをやりました。

携帯電話での更新を楽しくするため絵文字を使える様にし、SJISの文字コードを判別してPCでも同じようにみえるように絵文字画像に変換する仕組みづくりや管理画面のリニューアル、画像加工機能、持ち込みドメインへの対応などなど。ここで文字コードやDNSについて学んだりエンジニアとして幅広い知識を得ることができました。

また、最初は無収入なサービスでしたが、広告収益モデルとなるべく広告配信の仕組みを整えたり、広告収益の急激な悪化に伴い有料課金モデルへのシフトなど時代の流れにあわせて様々な取り組みを経験する事が出来たと思います。

順調にエンジニアとしてのキャリアは積んでいましたがリーダーに指名されるようなこともなく、このままでいいのかな…と少しモヤモヤしていたところで第一子を妊娠しました。当時、育休を取ったことがある女性がそもそもいない状況だったので「法律的には戻れるハズだけど本当に仕事復帰できるのかな?」という漠然とした不安はあったものの、誰かが切り開かないと行けない道だし頑張るぞ!と思っていたら、私以外にも同時期に2名出産を控えていることがわかり共に支え合いながら仕事をし、産休に入りました

第一子の育休と保育園探し

まだ、当時は色々制度が整っておらず育休中にもかかわらず社内SNSは見れる状態でした。そのため会社との阻害感はなく、「こんな人が入ってきたんだ〜〜〜へえ〜〜〜!」とか「こんな機能をリリースする準備してるんだな〜」というのが分かったりして楽しく眺めながら過ごしていました。何より、出産のために戻った実家は過ごしやすくてとてもありがたかったです。

息子が1歳になる前に保育園を探す必要があったのですが、0歳児を受け付けてくれる認可保育園はなく、1歳からしか入れないという状況。息子は11月生まれのため応募すら出来ないということで、これはヤバイかもしれないと思い調べたところ、認証保育園ならば0歳でも入れる可能性がありそうとわかりさっそく見学に。偶然にもその日2つめの保育園にて、今なら空きが1つあるとのこと。夫と会社にそれぞれ相談して、当初の予定よりは数ヶ月早い時期に復帰が決まりました。(認証保育園の保育料は補助金ナシだと私のお給料がほぼ消える…という金額で何のために働いているんだろう…?という気持ちになってしまうこともありました)

復帰&第二子妊娠

職場復帰をするに当たって考え無いと行けなかったのが「時短勤務」「時差勤務」をどうするのか。(私が復帰を考えていた時は)時短勤務を選択すると給与が元の月給から算出した時給制となってしまい、安定した給与が得られない可能性が高かったため、最初から8時間勤務することに決めました。(※今現在はこの部分も勤務時間との按分による月給制となり改善されてます)保育園への送りを夫に頼むこととし、迎えを私が担当するため時差勤務のみ利用する事に。8時-17時の勤務で再スタートを切りました。妊娠前と同じ部署で働くと言うのが育休あけのルールのため、JUGEMのエンジニアとして復帰し、1年くらいのブランクはあったものの大きな問題なく仕事に復帰できました。意外と忘れてなくて安心したことを今でも覚えています。ただ、その一年の間に上司や周りのメンバーはガラッと変わっており、ちょっと寂しい気持ちになったものです。

残業が基本出来ないという契約にしていたため、とにかく締め切りを守って仕事することを大事にしていたのと、いつ子どもが熱を出して呼び出しが来るか分からない状況での勤務だったため「自分が居なくても大丈夫な状況」を作るように心がけていました。社内でのアウトプット量が増えていた時期ではないかなと思います。

この時期のリリース物は、JUGEMの有料版の機能追加で画像フィルターを作ったり、決済追加の開発をお手伝いしたりと短い期間ながらもみんなに喜んでもらえるものを提供したいという気持ちで頑張っていました。

そんな中、第2子を妊娠し、東日本大震災が起き時代がめまぐるしく動く中、産休に入る前に部署異動してチャレンジ出来る環境に行きたいという意向を伝えました。時期的に移動が難しく、育休明けにJUGEMではない部署に配属するという約束を取り付けて休みに入りました。

第二子のお休み中

会社もそれなりに大きくなっており、情報統制等がしっかりしてきていたこともあり第一子のときと違って社内SNSへのアクセスは出来なくなってしまいました。会社の情報をするには人事からの連絡と在籍時に仲が良かった友人から教えてもらえることで全て。会社で何が起きているのかほぼ分からない状態になってしまいました。(※情報が得られないことが不安につながるのだと言うことをこの時期とても身に染みたため、復帰後に人事にその旨を伝え今現在は阻害感を受けないようにしていただけていると聞いています。)

前回のように保育園探しが大変な状況にはなりたくないと思い、通わせていた認証保育園に第二子が入れるように枠の予約は行い保険はバッチリな状態。そんな中、待機児童対策の一環として新設保育園が近所に出来るということが判明。しかも、認可で0歳〜5歳まで預かってくれるとのこと。無理かもと思っていた兄妹どちらも同じ園に転園出来るかもしれない!!ということで何としても保育園の枠を確保すべく、資料作りに没頭しました。点数を少しでも稼げるように入園のしおりを熟読しマイナスにならないよう復職の手続きを行ったりもしました。結果は無事に2人とも入園できました。お世話になった認証の保育園にはこれまでのお礼と、予約枠が不要になった旨のお詫びをして新しい保育園へ。

小学生の壁

2回目の育休からの復帰後は今所属しているECへ。開発様式は育休前のJUGEMとは大きく異なり覚えることがたくさんありましたが、それを求めての異動だったので大変だけど学びが多く充実した日々を過ごせました。これまでの経験を生かしてショップオーナー様の問合せに対するテクニカルな対応や要望を受けての機能開発など、今の業務につながる内容を主に担当していました。JUGEM時代と比べて、開発も複数人でやっていけるようSubversionによる履歴管理やデプロイの仕組みになっていたため、覚えることはたくさんありました。またちょうど、開発者界隈でGithubが流行り始めていたということもあり、Subversionからgit-svnを経て、Githubのプライベートリポジトリ管理となり、コードレビューの文化が社内に生まれました。またアジャイル開発についての学習やスクラムの取り組みなども社内で始まり各々ひとりでの開発からチームでの開発へと切り替わって行きました。また、このタイミングでこれまで経験させてもらえなかったリーダーになり、より責任を持って業務に取り組みつつ、スキルアップを実感できる環境になりました。

そんな中、息子が小学生になり、よく言われる小1の壁がやってきました。学童保育に入れたことにより大きな問題は起きず、無事に乗り越えることが出来たのですが、その翌年からPTA活動の1つである「登校班の付き添い」がフルタイムで仕事をして居る人でも平日の朝に担当しないのは不公平というクレームを受けました。そこでどうやって乗りきろう…?と考えた結果、一部で導入されていた「フレックス勤務」を適用できれば、この問題が解決出来ると気づき、上司や人事と相談を重ねて残業制限の撤廃を条件に切り換えを行いました。(注:当時フレックス勤務が使えるのは障害等のエスカレーション対応が出来るメンバーに限っていたため、育休明けのメンバーを守るための残業制限を取り払わなければならなかったという経緯です。)フレックス勤務になった事により、多少残業は増えましたがチームメンバーの協力もあって仕事と家庭の両立を保つことが出来ました。

その間サブマネージャーに昇格し、より多くの情報を取り扱うことが出来る様になって便利に思う一方、マネージャーへの昇格は生涯エンジニアとして働きたいという自分の気持ちと逸れてしまうということを面談等でもお話ししている時期でありました。また、事業部として品質管理が必要であるとメンバーと共に訴えて、QAチームを作らせて貰ったり、今後のEC事情を考えるとこれまで以上にショップオーナー様の信頼度を上げていく必要があるとのことで、CRE(Customer Reliability Engineering)のチームを作って行きたいという上長からのお願いもあり、両チームのリーダーとして社内にこれまで無かった部門の立ち上げと運営に尽力していきました。

PTAの役員になる

その後第二子も小学生に上がり、落ち着いてきた頃PTA役員のくじに当選してしまい役員決めの話し合いの場へ参加することに。この年からPTA役員になった場合の特約がつき、【一年役員を務めたPTA会員は今後全ての同校に入学する子に対してPTA役員・委員決めから除外して貰える権利】が与えられるとのこと。本来であれば1人の子に対して卒業までに、1〜2回の委員を経験する必要があるため、1年踏ん張って役員をやれば今後一切受ける必要がないのは良いかもと思い挑戦することに。前任の役員さんの配慮もあって、フルタイムでもできる役割を選ばせてもらいました。幸いにもPCでの資料作りは難なく出来るため、淡々と自分の仕事をこなして過ごすことができました。これらの資料を作るのにどうしてもマイクロソフトのOfficeが必要だったため、お名前.comのoffice365を契約し、PC・スマホ・タブレットにていつでも使える様にし場所の制限を受けないようにしました。学校に集まる必要があるときは、育児中のメンバーに許可されていた在宅勤務を利用し【外出扱い】で業務を中抜けして会議に参加。終わり次第仕事に戻ることでうまく時間のやりくりを行いました。

また、この頃にエンジニアのマネジメントを行うというキャリアが生まれると聞き、これであれば自分のやっていきたいことと合致するため機会があれば進みたいと意思表明を行っていました。

EL見習い→EL昇格へ

2020年に入り、社内にてエンジニアのマネジメントラインが7月に正式に発足することが決まり、7月からエンジニアリングリード(EL)として働けるよう、1月からEL見習いとしてチーフテクニカルリード(CTL、後のシニアエンジニアリングリードことSEL)に教わりながらのお仕事が始まりました。サブマネジャーとしても評価の面談は行ってきていたことや新入社員への教育等も実施していた経験が活かせたのも大きいかなと思います。エンジニアリングマネジメント勉強会にも週1で参加し、知識の向上に努めたり、新卒10期生エンジニアの研修にリーダーとして関わったりとこれまで以上に他部署の面々との関わりが大きく増えました。

7月には無事ELとして任命され、担当しているEC事業部のメンバーのエンジニアリング向上に向けて活動を行っています。評価では厳しい話をしなければならないことも稀にあり大変ではありますが、子育ての最初の時期に比べたら、話が通じる事へのありがたみの方が大きくそこまで苦にはなっていません。新設された、ELに対して理解のあるメンバーに囲まれていることも弊社の良いところです。

今後について

ELとしてエンジニア全体の開発力向上に努めていくことはもちろんのこと個人的な思いとしては、まだまだ、女性エンジニアの比率は他職種に比べて低い状況であるため、ライフステージが変わっても良い会社を選べばこの通り長く続けていける業種であることを伝えつつ、入社してくれた(今は)貴重な女性エンジニア達がより活躍していけるようにサポートをしていきたいと考えています。

自分自身の目標としては、バリキャリではなく、(ちょっと努力が必要な位の)自分の手に負える「ちょうどいいキャリア」を積んでいけるということを証明して行けたら良いなと思っています。

2021/02/01 追記

この記事を読ん見終えて、入社する前はどうだったんだ??と気になった方がもしいらっしゃいましたらこちらの記事をご覧ください。


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