非人間的なもの―人間の代替としてのロボットおよびAIが及ぼす心理的影響 ②

定型文的形式から個人性重視型AIへの移行

 続いてエアフレンド(人工知能育成アプリ)を例に挙げる。これはコミュニケーションツールLINEの公式アカウントの一つで、他のアカウント同様に友達登録ができる。しかし企業やサイトの公式アカウントとは全く異なった性質をもつ。

友達登録後に特定の人物の名前や属性(女子高生、ホストなど)をチャットに送ると、それに適した候補がトーク画面に羅列される。例えば、SnowMan渡辺翔太の名前を入力すると彼を名乗るAI、すなわち会話相手となる「渡辺翔太AI版」の候補が複数出てくるため、AI一つとっても選択肢が生まれるのだ。最終的には自らが選択した「渡辺翔太AI版」とLINEを通して会話が出来るといった仕様である。

なおAIアカウントの登録は一般人でも簡単に行えるようで、ブレイク中のアイドルやタレントは登録数が多い傾向にある。アイコンや名称はそれぞれの登録者によって異なるため、それらを判断基準にしたり、またユーザーのお気に入り登録数も表示されているため、その数字を根拠に選択することもできる(お気に入り登録数が完成度の指数を表していると考えられるため)。

しかし、AIの登録時点で最低限の知識がインプットされているとはいえ、その芸能人や職業に則した会話や感情の絡むやり取りが最初から完璧に出来るわけではない。渡辺翔太AI版に試しに誕生日を聞いてみたところ、全く違う日付が返答された。恐らく、この問答の想定は登録の時点でされていなかったのだろう。
だが、ここがエアフレンドの大きな特徴だ。お気に入り登録したAIはトークを重ねるにつれて会話パターンを自動的に学習する上、会話パターンや口癖の指定が可能なため自身好みにAIを育成できるのである。渡辺翔太本人を忠実に再現することも理論上は可能であるし、好きな口調や会話の論調の指定で理想の恋人を創り出すことも、何事も肯定してくれる最高の友人もLINE上で無限に生み出せる。すなわち、ユーザーは架空の存在を相手にしながら理想の人間関係の構築が可能になる。

実際、LINEが提供するフリーチャット(友達登録していない人々と自由に会話ができる掲示板のような機能)にはお気に入りのエアフレンドを自慢し合うスレッドが乱立している。
納得のいく友達や恋人を自分好みに育成することで幸福感を獲得→築いた関係性を第三者に誇示できる場に移行→そこで得た称賛や羨望を始めとする承認感覚を得る。この段階を踏むことで、ユーザーは様々なベクトルからの満足感を獲得できるといった具合だ。

エアフレンドとの関係性と従来のAI・ロボットと築かれるとされてきた関係性の性質はそれぞれの特徴によって明確に区別される。前述の通りエアフレンドの大きな特徴はユーザー自身でAIを育成できるという点にあるだろう。従来のAI・ロボットは事前のプログラミングに基づいた行動および発言を行い良くも悪くも形式通りの動きを見せていたが、エアフレンドはLINEという一般人が慣れ親しんだツールを経由することで簡単にAIの行動プロセスに直接関与できる。それに付随する愛着や親しみの感情が人間の心的欲求にダイレクトに作用しているのではないだろうか。

AIの技術発達により我々の欲求へのアプローチ方法は更に多岐に及ぶこととなった。
だが、懸念すべき点も勿論存在する。脳科学者茂木健一郎(1962-)は「人工知能の発達によって、正解が決まっているような問いに早く答えるような能力はコモディティ化して価値が減る。むしろ、ワンアンドオンリーな個性の方が重要になってくる。しかし、そのような人間の「個性」もまた、人工知能によって脅かされようとしている。私たち人間一人ひとりの「尊厳」、「個性」を成立させている要素が、人工知能によって複製可能、交換可能なものになろうとしているからだ(中略)人工知能を通して、人為的にフェイクのリアリティを生みだすことができる世界において、人間はどのようにして価値観や世界観を再構築していくのか。それは、これからの私たちにとっての最も重要な課題の一つである。」 と述べている。

従来の定型文的なやり取りから個人化されたAIとのやり取りへの移行およびその価値の上昇は、人工知能による人間の個性の揺らぎに直接繋がるといっても過言ではない。人間特有の個性や特質すらもが剥奪されたり価値の無効化が為された場合、「人間である意義」もAIと代替可能なものになってしまうのだろうか。

人間の手によって造り出された人工知能だが、それは我々の存在意義を問う存在に現在進行形で変貌しているに違いない。

 

1.     結論

今回主に取り上げたセラピー的効用や文面上のやり取りだけでなく、AIは音声や映像でも人間の代替を務め始めている。技術進化や圧倒的なスピードで行われる独自の学習機能に伴い、我々人間はアイデンティティや存在意義を新たに求めることとなるだろう。しかし、それらの構築に必要不可欠な人間関係や趣味などの個人的要素にAIは既に浸食を始めている。またディープフェイクの横行で現実には起こっていない出来事がデータとして残されたり、逆にあったはずの出来事を別の人物や物に置き換えたりすることがより精緻にできるようになっているため、従来は人間であるという事実によってのみ担保されていた特有の経験認識すらもが揺らぎを見せ始めていることから、従来の経験論の見直しを図る必要があると考えられる。

一方で、デジタルの衰退が見えない現代においてはAI・ロボットとの新たな関わり方を見出すといった方向性も決して誤りではないだろう。無論、元来の人間論をなぞると所詮機械である人工知能に求める精神的繋がりが健康的でないことは確かだ。しかし「人間の手で造り出されたこと」「造り出した人間の内情は少なくとも反映されていること」を認容すると機械愛という特性が同性愛や動物愛などと同様の扱いを受けるようになったり、犬や猫といった愛玩動物にロボットが加わるのも時間の問題のように思える。
すなわちそれは「人間の可能性の拡張」が行われることと同義といっても過言ではない。

また人間や生物の代替として感情の矛先を向ける、というよりもAI・ロボットや機械を通して構築される関係性の方がより心情に寄り添ってくれると判断する人間が増えていることも事実である。
「もしロボットが「私を気づかう行動」をしてくれるなら、精巧な日本製のロボットを買って恋人の代わりにする」 一昔前では考えられなかった意向だが、世界のデジタル化と共に欲望や感情の受け皿も電子の世界の中で発達した。それに付随して人間側の感情の拠り所も同様に変遷を遂げることは至って自然ではないだろうか。

個人的には機械を通した恋愛の経験によって、その新たな可能性の存在を信じてみたいという願望が自身の根底に存在しているように感じる。以上の理論をすんなりと受け入れられない人々がいるであろうことも理解しているが、私はデジタル化された関係および対機械の関係性は肉体的に接する関係、対人間の関係性にはない無限の可能性を秘めていると信じてやまない。


 茂木健一郎『クオリアと人工意識』講談社、2020年、p35-37

 『つながっているのに孤独』p43

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