箱根滞在記

祖父母との箱根行きが決まったのはひと月ほど前。例の旅行支援の神奈川の予約枠は大好評につき開始早々締め切ってしまったものの、一度目の追加受付が始まったタイミングでちょうど祖父母御用達の箱根のホテルの予約が取れたとのことで、同行させてもらうことになった。かねてから祖父母は還暦を迎えてから月に一度、1泊~2泊程度の旅行に出かけている。箱根は特にお気に入りの宿泊地のようで、三か月に一度は必ず訪れている。帰りに黒たまごをお土産に持ってきてくれる度に私は「箱根行きたい~」と成人済みの孫らしい控え目な主張をしていた。その甲斐あって、筋金入りの神奈川県民であるにも関わらず今回物心ついてから初めての箱根行きが決定した。
 しかし、当日を迎えるまで楽しみな気持ち10割で過ごせていたわけではない。いくら元気だとはいえ祖父母も70代後半に差し掛かっているわけで、立派なシニアである。毎食到底考えられない量の薬を飲んでいるし、祖父に関しては今年の夏に軽度の脳梗塞を起こしている。加えて、箱根観光客にはお馴染みの箱根ロマンスカーではなく、祖母の運転で冬の箱根に向かうという。すなわち当日の気温が氷点下になった瞬間、私はそれなりに良いホテルに宿泊している観光客から箱根の山から下りられない難民に転落することがこの時点で決定していた。身近な高齢者ドライバーに対して免許返納を迫れる人はどのくらいいるのだろう。今年のM-1のさや香の一本目、免許返納は至高だった。「きょうちゃんは晴れ女だから大丈夫だよ~」という何の根拠もない多方面からの楽観的な物言いと、前回の小豆島滞在(レンタカーは借りれずタクシーも出ずっぱり、30分に1本のバスを待つ羽目になった)に引き続き、「私が運転できれば良かった話じゃん…」という23歳に差し掛かるにも関わらず、れっきとした高齢者2人に対して未だに頼り切りな情けない自分への嫌悪感に埋め尽くされていたといっても過言ではない。そして孫という立場上、当たり前ではあるのかもしれないが経済的にも寄りかかることが決定していた(無論100万くらい貯金があったら祖父母孝行するが)。
 祖父母との旅行の日を手放しに待ち遠しく思うためには、AEDや心臓マッサージ等の研修と免許取得、そして経済的な自立がマストだな…と考えながらも小豆島滞在と同様、特に行動に移すことなく当日を迎えた。

12.13

 「10時半頃に迎えに行くね~」の連絡が昨日祖母からきたきり、10時半を過ぎても何の連絡もない。LINEの既読もつかない。早速不安になる。こういった類の心配は8割がた杞憂に終わっているが、ちょうど1年前、カニ食べ放題に祖母に誘われた際、約束の時間になっても連絡がつかずz自宅のチャイムも鳴らないことに痺れを切らして、いつもの迎えルートを行ってみると見覚えのある白いプリウスと軽自動車が接触しており、立ち尽くす祖母と隣には事情聴取にかかっている警官がいた。つまり2割の不安は的中していて、打率でいえば相当である。結局その接触事故は相手の軽自動車が無理やり右折してきたことによるものであったらしいが、それを境に祖母の運転が心配材料の一つになってしまったことに変わりはない。
 そんな心配をよそに、10時45分ごろ祖母から「いま家出たから待ってて~」との着信あり。10分もしない程度で迎えのチャイムが鳴り、助手席に座るいつものキャップを被った祖父とサングラスを掛けた祖母の運転で箱根へと出発した。
 箱根には自宅から2時間程度で到着する。道中、長い海道を走るのだが晴れ女ここに極まれりといった快晴のおかげでくっきりとした水平線が望めた。揺れる白波と澄んだ青を車窓から眺めながら、前日に読んだ小説『明るい夜に出かけて』の一節を思い出していた。「俺は人生で何回、海を見ているのかな、いくつの違う海を見ているのかなと考えた。違う海って何?違う場所で見る海?十以上百以下?わかんねえなァ。」
フィクションものの小説やドラマや映画、ましてや青春小説なんて無縁だと思っていたが、今の推し(…)の単独初主演舞台が一週間前に発表された。その原作ということで『明るい夜に出かけて』を一日で読破したわけだが、海一つとっても一節を想起することで一人感傷に浸るのは読書、特に小説を読むことで初めて解禁される特別な日常の味わい方なのかもしれないと感じた。小中学生の時は読んでたら賢そうという理由だけで東野圭吾や湊かなえを読んでミステリー小説の面白さの上澄みをなぞっていたが、これを機に今まで考えもしなかった読書の楽しみ方を見いだせたように思えた。加えて、こうして私に新たな世界を開いてくれる推し(…)に対して改めて畏敬の意を抱いた。
 お昼時ということもあり、車内で昼食をとる店を決めた。祖父はかなりのグルメで、食べ物にはかなりのレベルを要求する(にしては鳥貴族を過大評価しているが)。ピザが無い海辺のイタリアンか、少し歩かないと行けない中華か、テレビで取り上げられたけど実際イマイチだった寿司屋か、という選択を迫られかなり熟考を要した。実際イマイチだったのはまぁ祖父の期待値の高さによるものだろうとして、お寿司を希望した。すると祖父はApple製品を使いこなして、「とろせい」というローカル感丸出しのカウンターの寿司屋を見つけ出してきた。とろせいのぐるなびページのどこが祖父のお眼鏡に適ったのかはよく分からなかったが、車はとろせいの駐車場へと走った。その道中、前の車の急ブレーキの余波を受け、我々の白いプリウスは悲鳴を上げた。衝突寸前の一瞬でさすがに打率良すぎだろうwと危機迫る状況のなか笑ったが、なんとかノーヒットに終わり無事寿司にありつけた。
 とろせいの寿司は段違いで美味しかった。祖父は迷わず最高値のおまかせ握り4500円を注文し、「きょうちゃんもこれにしなよ」という鶴の一声で私も便乗することができた。ゴルゴ顔負けの黒いサングラスをした祖母は大のちらし寿司好きで、高松に続いてちらしの一番良いものを注文していた。
祖父は高血圧の糖尿もちでもあるため、昼間からの飲酒は滅多にしないのだが、日本酒を注文し私用におちょこを二つ頼んでくれた。正直お酒はあまり好きではないのだが、ここを断るのは孫としてあってはならないという使命感にも近い感情を抱きながらありがたく杯を交わした。祖父とお酒を飲むのはこれが初めてだった。前回の高松の小料理屋では父親もいたせいか何処か小恥ずかしく、祖母と同じウーロン茶を注文したんだった。
おまかせ握りのトップバッターは大トロだった。カウンターで頂く寿司に馴染みはなく、見よう見まねで祖父の振る舞いを完コピしながら次々と出される綺麗な寿司を一貫ずつ楽しんだ。寿司は白身から食べるのがツウ、という聞き覚えのある戒は祖父ととろせいの店主からすると馬鹿の一つ覚えにすぎないとのこと。好きなものから好きなだけ食べる、というのが本物の食通だという。池田大作大先生お抱えのカメラマンで数十年間世界中を飛び回っていた祖父の言う事は全てにおいて説得力がある。それにしても美味しかった。近所の常連が来たい時に来れるよう、テレビや雑誌の取材は全て断っていると帰り際に気の良い店主は私たちに教えてくれた。なんか良いお店だなぁと思った。
 とろせいは小田原寄りにあったため、箱根のホテルに到着するまで小一時間ほど掛かった。箱根の山々をうんざりするくらい上りまくり、箱根湯本の駅や箱根ガラスの森美術館等を通過し、なんとか14時半を過ぎるくらいに到着できた。和洋室の客室に到着するや否や私はオンライン講義を受け、その間祖父母は早速大浴場へと向かった。16時前頃に祖父が先に帰ってきたため、話していた内容を少し聞かれていた。「きょうちゃんが祖父って言ってるのなんか恥ずかしかったよ」と祖父ははにかんでいた。自分の娘の娘ができたら、私もこんな優しい顔ができるのだろうか。
 夕飯はバイキング形式だった。ここのホテルの名物はアスパラガスを豚のばら肉で巻いて揚げた、アスパラ一本揚げ。個人的に緑の野菜があまり得意ではないものの、名物と言われると好奇心が勝ってしまい1本食べてみた。それがすごく美味しく、結局3本くらい食べてしまった。意外とアスパラは食べれるのかもしれない。他の料理もとても美味しくコロナ禍になってから初めてのバイキングだったが、さすがに食べ過ぎてしまった。
 30分くらい部屋で休んでから、祖母と二人で大浴場に向かった。チェックインの時に男性スタッフが教えてくれた女性浴場のパスワードを入力して入場した。屋内の浴場は三つ、露天風呂が一つ、サウナと水風呂もあった。私は自他ともに認めるサウナーであるが、さすがに祖母と二人となるとサウナと水風呂3セットといった身勝手な入浴の仕方はできない。我慢できず一度だけ一人でサウナに行ったが5分少々で出たため「整う」ことは出来なかった。どういった流れでそうなったのか覚えていないが、髪を乾かしているときに祖母の学生時代の好きな人の話になった。今まで全くそういった類の話を聞いたことがなかったので、新鮮だった。普段は改めてしないような話に流れるのも旅行の醍醐味かもしれない。
 部屋に戻ると、祖母がてきぱきとお酒とつまみの準備をしてくれた。祖父母の家に行った時も、祖母は食事の時以外滅多に座らない。目下亭主関白な家庭であることに加え、単に世話好きなんだと思う。祖父と結婚する前の祖母はどんな人間だったんだろう、5分少々の恋バナでは到底掴み切れなかった。
そして用意してくれていたレモンサワーで再度三人で乾杯した。テレビで流れていた「ミステリージャーニー」ではコロンビアの麻薬王、パブロ・エスコバルの特集が組まれていた。祖父は当時の大統領に招かれた池田大作の帯同で、麻薬戦争の渦中にあったコロンビアに行ったことがあるらしい。戦車に囲まれながらJeepで街を回ったり(池田大作はベンツ)、宿泊予定だったホテルがテロの対象になっていることをキャッチした政府によって急遽変更され、帰国後にそのホテルが爆破されたという。やはり祖父の話はぶっ飛んでいる。パブロ・エスコバルの麻薬ビジネスでなんとか経済的発展を成したスラム街に、功利主義に関心を持っている身としては一度行ってみたい。いや、やっぱり行きたくはないかもしれない。


そんなこんなで1日目が終わった。和洋室ということで膝の悪い祖父母はベッド、私だけ6畳ほどの和室で布団で眠った。前回の祖父母のいびきによる寝付けなさを教訓に、イヤホンを持参したがなかなか寝付けず3時ごろまでホストクラブの裏側という何も得られないYouTubeを見漁ってしまった。女性の性産業による経済力が食い物にされている様子を見て吐き気を催していたのは少なくとも深夜3時過ぎの箱根では私だけだったと思う。


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