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湯気のある風景

しおにますみから連絡が入ったのは2月の中旬だった。

一か月以上会社にも出社せず音信不通だった事を詫び話がしたいと書いてあった。外に出るのはまだ難しいので家まで来てほしいとのことだった。

しおとますみはプライベートでは特段仲が良かった訳ではない。家に行ったこともなかった。しおに話をしたいと言うのはどういう事だろうと思ったが、しおもますみがどうしているのか、又これから仕事がどうなっていくのかは気になっていた。住所を聞いてグーグルマップだよりで週末訪ねる事にした。

その日は午後から雪という天気予報で空はグレーだった。気温が低く吐く息は白い。しおは近所の洋菓子店で焼き菓子を買ってますみの家に向かった。電車を2つ乗り継いで最寄り駅に到着したのは13時半頃だった。

駅から10分ほどの住宅街にますみのアパートはあった。

黄色い壁が印象的なこじんまりした建物で一階に手作りのテーブルと椅子が置いてある共同スペースのような場所があった。植物のプランターが床に置かれていてテーブルの下に雀が数羽集まっていた。

ますみの部屋は2階だった。

しおは少し緊張していた。もしかしたら休職の話とか、体調不良の原因の話になるのだろうか。もしかしたら会社を辞めてしまうのだろうか。色々と想像しながら階段を登った。

階段を登ってすぐの部屋がますみの部屋だった。チャイムを鳴らすと向こうから小さなますみの声がしてドアが開いた。もともととても細いけれど、一層痩せたような感じのますみが現れた。白いセーターにコーデュロイのスカートを履いていた。

「しおちゃん、来てくれてありがとう。」

ますみが小さな声で言った。ますみも緊張していたのかもしれないとしおはその時思った。かすかに震えているような気がした。しおは逆にますみの声を聞いて安心し笑顔で挨拶をした。

荷物の少ない綺麗に整頓されたワンルームに通してくれた。白を基調としたインテリアが簡素だけれど落ち着く。

「今紅茶淹れるね。」ますみは奥に座って待っていてほしいと手で促した。

しおは持参したお茶菓子を渡し奥のクッションが置いてあるあたりに腰を下ろした。駅までの道のりや今日の天気の話なんかをしながらストーブが置いてあるあたりにすっかり冷えた足が向くようにして暫くじっとしていた。

ますみが紅茶の入ったマグカップを持って向かいに座った。ますみの顔を見ると以前より顔が小さくなっているように思った。

「この紅茶頂きものなんだけど、薔薇の香りがしておいしいの。よかったらおかわりしてね。」

そうだ。ますみさんはこんな感じだった。おっとりとしていてゆっくりなのだ。忘れていた感覚を取り戻すような気持ちで紅茶を飲んだ。

「本当だ。美味しいです。もはやアロマですね。これ。」

ますみさん良かったと言ってかすかに笑った。本当に豊かな薔薇の香りがした。ますみはしおの買ったフィナンシェも美味しいと言ってくれた。焦がしたバターを感じる味わいがあった。少しお互いの緊張がほぐれてきた。小さな安堵の溜息が出た。

「しおちゃん、仕事長く休んで迷惑をかけてごめんなさい。」

ますみさんはぽつぽつと話し始めた。

「今は以前よりはいいの。でもまだ働けそうもない。自分でもはっきりとした原因は分からないんだけど、とにかく体が重くて辛い。毎日やっと起き上がる感じなの。病院にも行ったけど少しの薬と休養を取るようにって言われて。会社に相談するとか有給を取るとか全然考える事ができなくて。時間が経ってしまって。」

ますみさんは黙り込んだ。暫く外を走る車の音や家にあるものがきしむ音に包まれた。

「迷惑をかけてしまって。本当にごめんなさい。」

しおは咄嗟にいえ、とだけ言った。ますみから感じられた今の状況に対する困惑と戸惑いをしおは察した。身体から感じられる印象も薄く消え入りそうなものだった。

「仕事の方は今のところ何とかなってます。でもこのままだとやっぱり良くないので一度部長や人事に話した方がいいと思います。時間がかかってもいいので少しづつでも…。」

ますみは頷いた。しおはじっとストーブを見つめた。遠赤外線であたたまる足元に集中した。しおは熱というものが人をほっとさせることを思った。特に雪が降りそうな冬の日には。ますみもストーブの熱を見ていた。

しおもぽつりと言葉を落とした。

「たまに…生きているとふいに起こる事故のようなものがあるって思います。自分ではわからない。他人にもわからない。原因があるのかもわからない。そういうなんで今こうなっているんだろうっていう時って事故みたいだなと思うんです…。」

ますみはじっと聞いていた。

「今事故にあったという状態だとしたら、そこから回復することだけを考えてもいいのかもしれないです…。私にもわかりませんが。」

長い沈黙の後にますみは言った。

「事故だとしたらもう何故って考えなくて済むものね。何故って答えに力を費やすと後悔も責めも出てきて力がどんどん削がれていく。それで一層力が出せなくなるのは確かだと思う。」

外で雀が鳴いているのが聞こえる。共有スペースにいた雀かもしれない。

窓の外に雪が舞い始めた。

二人はそのあと少しの世間話をした。部屋の清潔さを褒められるとますみは謙遜した。しおはマグカップもかわいいしインテリアも趣味が良いとしきりに褒めた。

フィナンシェを食べ終えてしおは帰ることにした。いつでも連絡をくださいと最後に言うとますみはありがとうと頷いた。ますみの少し頬に赤みがさしていた。ドアのところまで出て手を振ってくれるますみにしおも手を振り返した。

帰り道は行きよりも長く感じられた。しおは雪で白くなった道を速足で歩いた。しんしんと凍えてくる寒さの中を。














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